作品を批判的に見ることができない人は多い、というかそういう練習を(主に大学などの高等教育で)していないとできるわけもない、と思うので、日本のファンダムがアニメだろうとアイドルだろうとおかしなことになりがちなのは当然だとも思っている。いわゆる「批評」を知らないと、「好き(だけどここはおかしいと思う)」や「嫌い(だけどここは素晴らしいと思う)」という評価をできない、あるいはそんな評価方法があることを知らない状態にあるわけで、ゆえに全肯定か無関心になりがちなのだろう。そう、無関心なのだ。なぜなら「批判するのはよくない(みんななかよく)」が染みついているので、嫌いと宣言できない。そして「批判=嫌いということの表明」という勘違いもそこに絡んでくるため、いっそう作品を批判的に見ることができない人が増える。

批評というのはおそらく「視点(観点)の数」が重要で、なんらかの作品を見る際に視点が複数ある(そしてどのような視点かが言語化できている)場合に、批評が可能になる。たとえばAという作品は「女性差別」の視点から見ると素晴らしい抵抗の物語となっているが、「人種差別」の視点から見るとその抵抗の手法には疑問が生じる、というような作品の捉え方。まず「女性/人種差別」という観点があることと、「自分はこの観点から見ています」ということを自覚できていること、この2つが揃って批評が可能になる。これは意識的に練習を積まないとできないことなので、多くの人間は単純化された「好き/嫌い」でしか判断ができない。「なぜそれを好き/嫌いだと思ったのか」を具体的に言語化することから始める必要があるが、それはとても面倒で労力のかかることなので、ふつうはやらない。「面白けりゃそれでいいじゃん!!(難しいこと考える必要なくね?)」が勝つ。

「面白けりゃそれでいいじゃん!!(難しいこと考える必要なくね?)」はそのまま「気にせざるを得ない人/気にせずに済む人」というマイノリティ/マジョリティの性質とも繋がるので、意識しないと当然「しないでいい」ほうにシーソーは傾いていく。

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しかしその面倒なことは他者を救うどころか自分の楽しみを増やすことにもなるのだから、ちゃんと向き合ったほうがいい。つまり、気にする観点=好きか嫌いかの判断基準なのだから、その数が多いと好き=楽しく思える箇所も増えるはずなのだ。ストーリー(話の流れ)とキャラ造形しか観点がない場合と、物語の語り方(映像ならフレームワークとかカット割り、小説なら人称の使い方とか)も観点のひとつになっている場合、作品を味わえる箇所は当然後者のほうが多くなる。たとえストーリーに納得できなくても語りの手法はよかったよね、という受け取り方=楽しみ方ができるようになる。だから批評ができるようになるとさまざまな作品を「楽しめる」ようになる。ストーリーがつまらんものも、根本的なところからの駄作も、テーマがそもそも差別的であるような醜悪なものも、すべて「批判」という形で「楽しめる」ようになる。もちろんこの「楽しめる」は文字通りの意味ではないが。

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