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私は世界中の「国家が市民を犠牲にすること」のすべてに対して怒っているのだ。だから、「国家Aと国家Bのどっちがどうか」という議論は、その議論自体が「国家が市民の上にある」を前提にしているので、自国擁護は論外だが相手国擁護にも賛同できない。

普段日本を批判しているのは、日本人の「国家が市民を犠牲にすることに肯定的である風潮」を批判しているのだ。市民の成熟を願っているのであって、善良な指導者を求めているのではない。「善い独裁」も「善い国家への忠誠」も要らない。

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