民主政国家において、裁判の公開が制度的保障として認められているのは何故なのか?それは決して手続きの正当性の確認、監視だけではないだろう。
そもそもとして。裁判所が下す判決や判断が第一に尊重されるのが法治国家の前提だが、当事者だけでなく市民から見てもその判断に疑義や疑念が生じた場合、説明責任、応答責任は絶えず求められる。そのプロセスは軽視されてはならない。それが社会が成熟していくと言うことなのだから。そうした批判が公の場で出来ることが保障されているのも民主政を構成する大事な要素であるはずで、市民からの批判を法的に無効だとしたり、批判者を無知だと切り捨てて、司法、立法セクターが現実社会と呼応することを忌避したり権威を背景にして否定しだした先にあるのが、専制国家、独裁国家であると、歴史がそれを証明しているのにね。
批判に対して法曹界に求められているのは啓蒙でも説諭でもない。我々が抱いた不安を払拭させる為の丁寧な説明だよ。そして現状ががおかしいのならば、それを改善するための手段を示すことだ。Twitter見ていると今の日本の司法は信頼を置くに足りる存在なのか極めて怪しく思える。この世に横たわる権力勾配が彼らの目に見えていないのが非常に気になる。