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少し前に河瀨直美が監督した東京五輪のドキュメンタリーの前後編をイッキ見した。事前の予想通り、私には非常に面白かった。但しそれは私のような河瀨直美作品をデビュー作からずっと見続けている奇特な人にとって面白いのであって、「東京五輪のドキュメンタリー」として見た人には、不満の残る仕上がりだろう。

河瀨直美という人は、基本的に自分のことにしか興味がない人で、自分こそ全てであり、その事を一切隠そうともしない人である。デビュー作のときは、まだ多少はそうした特徴も抑え気味だったのだが、世間から(特にあのカンヌから)評価されるに連れて、そうした自我が更にムクムクと大きくなり、しかしながら樹木希林との出会いによって娯楽提供者としての弁えを知ったのか、そうした傾向も多少は緩和させたものの、樹木の死を経て、反動が出たかのようにその自我は更に高まり、自分でもコントロール出来なくなりつつある中で作られた作品が、あの東京五輪ドキュメンタリーであった。

彼女の映画に「玄牝」というドキュメンタリー作品がある。テーマは監督も心酔してる自然分娩への讃歌だが、本人の中で撮影前に既に異論は外部化され、切断処理されているので、揺るがない信仰を元にカメラを回したことによって、全てが剥き出しのまま、観客に放り出されることにより、本人の意思や狙いとは裏腹に結果として自然分娩への疑問や医院の抱える複雑な人間関係が浮き上がってしまい、信念なき、信仰無きいち観客として見ると、賛歌どころか恐怖しか感じ得ないという監督の意図とは全く違う事がフィルムの中で起きていた。ドキュメンタリーに客観はないことを悪い意味で証明していたわけだが、作っている当人にその意識がまったくないのが実に興味深かった。

90年代の中頃だったかな、劇映画を撮る前の河瀨直美と是枝裕和が、8ミリフィルムでドキュメンタリーの往復書簡を取り交わすという企画があったのだが、是枝の映像には社会への視点が必ずあったのに、河瀨直美は、常に自分の話ばかりを撮り続けていて、結局その頃から当人の意識は全く変わっていないわけだが、その魂は五輪映画でも存分なく発揮されていた。

河瀨直美の作った東京五輪ドキュメンタリーは、「東京五輪で何があったのか?」がテーマではなく、「東京五輪という世界的大イベントに参加している私のドキュメンタリー」なのである。以前撮った作品同様「異論(この場合、五輪反対の世論)は外部化され切断処理 」を終えてから作品に取り掛っているので、傍目でみると、結構踏み込んだ話がそのまま映し出されるが、それは彼女にとって「開催に向けて私等が乗り越えてきた障害」にしか過ぎず、五輪の絶対性は彼女の中では揺るぎない。「玄牝」における自然分娩のときと、全く同じである。

あくまでもテーマはこのビッグプロジェクトに関わっている私、なのであり、だから、自分が聖火を持って走っている姿が映し出されるわけだし、映画の最後には「作詞作曲・歌唱 河瀬直美」の歌が流れるのである。若き頃、是枝裕和相手に自分の話をし続ける姿と、ある種の権威をまといながら、東京五輪公式映画のエンディングに自ら歌う自作曲が流れるこの光景をつなぎ合わせると、実に興味深く面白い。

こうした彼女の特徴を踏まえたら、あのNHK五輪番組の虚偽字幕問題は、彼女が知らなかったというのはありえないと思うよりほかない。あの番組自体が彼女にとって本作品以上の意味があるのだから。「世界的大イベントであるオリンピックの公式映画を撮っている私」が主役であるのだから。

壮大なこの世界的な企画に孤軍奮闘している自分たちの障害の一つとして描かれる森喜朗の失言、開閉会式の混沌、そして五輪に反対している市井の怪しげな人(しかも人は雇われているニセの反対者)というキャラクターは、彼女の「作品」にとって必要不可欠であり、あの騒ぎがビックアップされなければ、本編でもあの部分が取り上げられていたであろうことは、想像するに難くない。

ドキュメンタリーに客観はない

映像は作り手の意図を簡単に超えていくことがある。

河瀨直美が生み出すドキュメンタリーの作品群は、映像の怖さ、そして表現はいつも作り手側のコントロールが効くとは限らないのだ、という事をわれわれに教えてくれる

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