『我々は 人間 なのか?』
ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー/BNN新社
石器からスマートフォンまで、人間がデザインし生み出した道具によって、私たちはリデザインされている。
左利きが"矯正"されるのも、アーキタイプが"母"に求められるのも、血縁から"家族"をつくるのも、人間の生活慣習と社会環境からの要請によるものであって、今日あたりまえのように思われている構造とはここ何十年か、ときには何世紀にもわたってデザインされ続けてきたものの結果でしかない。
同じように、生物としてのオス・メスの区別が存在することとは別で、オスを"男として"扱うと決めているのはデザイン上の問題ということだ。
もっとも近年の研究では、生物の性そのものがスペクトラムなのだという考え方もあって( https://nhkbook-hiraku.com/n/nb2d4f6cbc36b?gs=ac3f3f07f1b7 )、こうした事実や知識に基づいて、旧い構造を残置せず新たなデザインで置き換えていくことは、人間の当然の営みなのだ。
私たちはデザインすることで、人間としての存在を更新し続けてきたのだから。
岡本太郎展にいってきたが
岡本太郎の作品は、平成のぬるま湯で育ってきた身からすると、いかにも昭和的なパワーの象徴のように思えてならなかった。万博という夢の跡に聳える「太陽の塔」も、人が蠢く渋谷を見下ろす「明日への神話」もだ。
でも「なんだこれは」が「なんだかよくわからなくて気持ち悪い」につながってしまう、それはひとえに自分の無知から来るものだと思い知らされた。
彼の境遇を顧みても、若くして生活や価値観のやり直しを強いられた彼等の世代にとっても、必要なのは全く新しいパワーだった。
かつての日本には、なんだかよくわからないものこそが発することのできる力を、その身で受けとめたり大衆に広げたり公共空間の象徴としたりするだけの度量とセンスがあったらしい。
それから半世紀、岡本太郎を経たはずの日本人の心はとくに進歩もせず、調和もせず、かといって爆発もせず、ただスマホと慣習の奴隷となって時代を彷徨っている。
対極にあるものをなんとか覆い隠し簡略化し時に誤魔化してまでも、なあなあにしようとするのが現代なら、その現実を見通す眼と風穴をあける力が欲しい。
Fuyuki Amamiya:いまだに本屋のひと。読書とかゲームとか飛行機とか鳥撮とかガジェットとか投資とか政治とかまで、なんとか雑多に生きてます(・ω・)ノ
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