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論の運びに恣意性や飛躍があるかどうかを自分で分かるようになってもらうというのは、どういうふうに言えばよいのか、悩ましい。書き手の自分にはそれで十分に思われても、はたして読み手がついてこれるかどうか、みたいな言い方はよくしてるけど。

自分にとってももちろん難しく、人には言えても自分には永遠に言えなさそうなことではある。

過謬性はあるけど創造的な飛躍には魅力もあるし、慎重で控えめな留保との兼ね合いの妙がほしいのかな。

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