>『ケロッグ博士』と『オリーブの林をぬけて』
どうなんでしょう、詳しいことは覚えていないのですが、ただ基本的には日本で観てると思うので日本での公開年だと思います。
それにしても「心が全裸」って表現なんかイイですね・・・そう言われればそういう映画な気もしてくるし・・・

@sammo_hung_impo  そうですね、ホセインに話しかけられてもずっと黙っていてどう思っているのか分からないタヘレさんとは非常に対照的で、『友だちのうちはどこ?』の8歳の少年に通じるところがあり、映画のなかの映画では俳優の役をやっていてもそこでも死者65人という架空の設定が言えず25人と言ってしまうほどのにわか俳優のホセインが、タヘレさんへの求婚となるともうまったく演技なしのストレートなぶつかり方ということを言っているのかなと思います。

自分を騙したり自分を良く見せるために上手いこと着飾るような器用さがないんですよね。映画内映画の撮影を通してそれが浮かび上がってくるという。キアロスタミってそういう人を描く監督なんだろうなって思います。ジグザグ道があったらズルして道を無視して縦断したりしないで愚直にジグザグ道を歩く人の物語を、っていう。

@sammo_hung_impo そう考えると、『友だちのうちは~』でアハマド君が歩いていたジグザグ道をこの映画でまたホセインが歩いているのは、象徴的なことのようにも感じられてきます。

キアロスタミの映画の自然さは、風景とか、撮り方とか、いろいろなもので構成されていると思いますが、おっしゃるように、他者に見せている自分と、内側にある自分との間に乖離がない人物をずっと見ることになる、というのも1つあるかも知れません。

『クローズアップ』の被告の男とか、『風の吹くまま』の本当の目的を言わない主人公とか、人を騙す人もいますが、騙そうとしてうまく行ってないし、不器用で単純なところは一貫している気もします。

淀川長治の先の文章は、締めくくりのところで、キアロスタミはハダカの人が好きで、しかも風呂に入っていないような男のハダカが好きだ、と書いてあって、何となく言いたいことは分かるものの、まあでも癖の強い独特な表現だなと思います。

最後の下りで笑ってしまいましたw
キアロスタミは(精神が)ハダカの人が好きっていうのは、淀長さんはハダカの精神を持つ北野映画を早くから非常に高く評価していた人ですから頷ける表現なんですが、風呂に入ってないまで付け加えたらキアロスタミからクレーム来そうですよね。風呂には入ってるのが好きだよ!ってw
独特ですよねやっぱり。淀長さんは自分だけの評価軸と世界観があってそこからブレない。その意味では淀長自身がハダカの人だったのかもしれません。そういう批評をする人、ほとんどいなくなってしまいました。

@sammo_hung_impo ハダカに喩えたあとで、自分のなかのいろいろなハダカのなかで近いのはこれという言い方は、頭のなかにハダカの分類テーブルなんてあまりない我々からすると、なかなかついて行きづらいものがありますね。キレイなハダカとか、肉体美とか、そういうのとは違うということでしょうし、ホセインには家がないとか、字も読めないそういう男だというのと、どこかイメージがつながっている表現なのかも知れませんが。

淀川長治自身、この映画を3回見て、3回ともホセインに見とれた、と書いています。東京でキアロスタミに会ったときに、彼の手を掴んで、ホセインを日本に来させてほしいと言ったそうです。


それはなんだか恋のような…キアロスタミ映画をそう見る人って淀長ぐらいですよね。大抵の人はたぶん作家主義的に見て、キアロスタミ映画の出演者に惚れるなんてことはないのでは。幸せな人だなぁと思う一方でその映画と現実の間に壁がないような距離感には恐ろしさすら感じますよ。一線を超えた人って感じで。

@sammo_hung_impo  お話、よく分かる気がします。フツーは監督について話したくなりますよね。あるいは、登場人物のなかに個々に心惹かれる人がいることもたしかにあるのですが、それと、日本に呼んでとまで言うのとは、やや違います。
「この監督に逢ってずいぶんと質問をしたはずなのに何を話したのか、その思い出はホセインを日本に呼んでほしいのイッテンバリだった。」
せっかく他の質問もしたのなら、その答えも聞きたかったと思います。
淀川長治本人にしてみれば、○キアロスタミがこういう男が好きなんだ→○映画を通じて監督の気持ちに自分も同化してうなづく気持ちになるんだ、というかたちで、この監督の作品について語っているということになっているのでしょう。ホセインについて言えることは、『クローズ・アップ』のだましてもだませない年とった男にも言えるというふうな書きぶりで、監督がこの男の純粋さが好きだというのが見ていてすぐわかる、と書いています。
我々がこんな映画があるんだと強い異化を感じるものにも、『ローマの休日』のアン王女を語るような古典的な心理的同一化でもって語る人という感じでしょうか。


『ローマの休日』とキアロスタミ映画を同じ水準で観れるんですよね、淀長は。俺はそこに(いささか映画的に過ぎる見方だとはわかってるんですが)淀長の性的指向が強く関わっているんじゃないかと思っていて、この人は今風に言えばクローゼット・ゲイでしょうけど、何かに仮託してそのことを仄めかすようなことは多かった。

俺がよく覚えているのは自伝かなんかで子供時代を振り返って、劇場で若い男の子のスリが出たと言って騒ぎになったことがあったが私には彼がスリではなく本当は何をしていたのかわかった、と書いているくだりです。淀長はその具体的な意味は説明しないけれども、おそらくハッテンとか男相手の痴漢と言いたかったんだと思います。

時代が時代ですしこの記述からすればかなり幼い頃からゲイを自認していた淀長は現実世界で誰にも自分の内心を打ち明けることも共有することもできなかった。彼にとって映画は自分のありのままの性的願望を何も言わず受け入れてくれる夢のような存在だったんじゃないか…それが映画との身体レベルのコミュニケーションを可能にしてたのかな、と思うんです。

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@sammo_hung_impo コメント、ありがとうございます。つまり、淀川長治は、キアロスタミの気持ちになって、監督に同一化して、監督の気持ちが分かるので監督の気持ちはこうですよという構えで解説しているけれども、そこにあるのはむしろ、淀川長治本人の特性を監督に投影して話している姿ということですね。
たしかに、書いていただいた文章を読み、その頭で淀川長治の解説文を読んでも違和感はないので、書いてくださった理解の可能性は十分ありうるように思いました。その男の子は本当にスリかも知れないけど、私には分かるというかたちで自己投影しているとしたら、同じ構造が反復されていると考えることができそうです。

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