冷静になると絵が下手!!!!て叫びそうになるなつらいそして白い
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ある人が何らかの点でマジョリティ属性であること自体を批判したり糾弾したりするのはフェミニズムの政治が目指すものでもクィアの政治が目指すものでもないと私は思うのだけれども、とりわけSNSなどで小さく切り取られた鋭利なメッセージだけが一人歩きしがちな状況が続いてきた中で、特に若くてまだ感受性も鋭い人たちを中心に、そういう風な「マジョリティ属性それ自体に罪悪感を覚える」形でメッセージが伝わってしまっている側面は確実にある気がしている。
私はずっとTwitterを使ってきたので意図的ではなかったにせよ結果としてそのようなメッセージ伝達の一端を担った責任はあると思っているし、さらに言えばそれに意識的になったのもこの数年だし、気がついても介入の仕方がわからなかったし、というのもある。
ただ、「マイノリティ認定をしたらその途端にマイノリティ側が道徳的・倫理的に絶対優位に立つ」と思い込んでいるかのような発言を、差別側、被差別側、権利擁護側のいずれにおいても目にすることは多くなっているし、なんかちょっと一度そのあたりを整理して共有していく方法はないんだろうか、とは思う。
ジェンダーやセクシュアリティについて教えていると学生から人生相談を受けるというのは教員あるあるらしいけれど、学生もきちんと相手を見ているので、私は指導性や一緒に仕事している学生以外からそういう相談をされた経験はほとんどない。
で、先日珍しく相談をされて何かと思ったら、「ジェンダーを勉強していて、興味もあるけれど、自分がマジョリティだから責任があるという罪悪感が動機の一つとして大きい、勉強しながらとても辛い」みたいな話で。
「マジョリティには責任がある」というのはそれ自体は念頭におくべきだけれども、それは罪悪感を抱くべきものではないと私は思っている。これは構造の話であって個人的な罪の話ではないから。
それに、罪悪感が出発点になると、押しつぶされるか、どこかでマイノリティへの恨みが溜まってしまうか、自分の罪悪感の解消が無意識的に先立ってしまって厄介なことになるか、のどれかに陥りやすい気もする。
性の政治との関わり方としては、やっぱり「自分」の問題関心から出発するので良いと思う。
このあたり、以前から少し気になっていたのだけれど、真面目な若い人ほど袋小路に入り込みがちで、難しい。
自分用+αで刷って在庫を抱き締めて生きたらいいんかな
ヤッッッ…うぇぼから通知珍し〜と思ったらついったアイコンについて聞かれた。このアイコン気に入ってて変える気無いんだけど、ンピから来た人にはわけわからんだろうなと思ってはいたんだよね。映画ジャンル?と聞かれてしまった。どのくらいの圧で返事したら視聴まで持っていけるんだろうなこれ。
だいぶ閉じてる。主に記録。