本当に何歳で職場やめようか考え始めているのですが、あまり人間関係が険悪になったこともないし意義がまったくないとも思っていないので、憎しみを持って辞めるということはできそうにないですね。

アルトネリコが一部で話題とのこと。今年のうちには、いいアルトネリコ論(というか、コスモスフィア論)を書きたいですが準備があまり進んでいません

中高生くらいのときに11eyesというゲームがあり、プレイしたことはなかったけどその関連曲は好きでよく聴いていたのを思い出しました。

「罪償いも誰かの遊び事」というのが自分のことを言われているような気がしました

2022年に出した『生き延びるための自虐』電子化作業中です。今月中には発行できるのではと思います。

今年はマジで何もできないかもしれません。労働が大変です

ただ、これからは履歴書に書けるほうの仕事がかなり忙しくなりそうで、しばらくは何も動けそうにないのが残念です。

なんとなく次回制作する個人誌の構想をしているのですが、いくつかのブログ記事をまとめて一つの流れのように再構成できればと思います。もう少し、伝わりやすいコンセプトの説明を考えるのと、調べることがたくさんありますけど。

「生きててもいい事なんかない」と思っていた人が、誰かを信じてみようとか、誰かになにかしてあげようという気持ちになれたと語るようになる、それがどのように奇跡的で貴いことなのか、昔の私はわかっていなかったと思います。

アルトネリコ、ヒュムノス語の歌が注目されがちですが通常のBGMもいいですね。クレセントクロニクルで流れる曲が好きです

ただ私は原作のキャラクターの描写をできるだけ無視しないことは重要だと思いつつも、そのすべてを勘案できるのか、そもそも作品が当のキャラクターをありのままに描いているのだろうか、という点に疑いがあります。
どんなフィクションでも、受容者は制作側が設定した枠組みやカメラを通してキャラクターを見ます。その制限や誘導の戦略を意識しつつ、あえて無理がある過剰解釈を行うこと、あるいは表層を表層しか受け取らないことには、作者と受容者の関係に緊張をもたらす力があるのではと思います。

この記事を読んで、なんか水上文さんが昔ブログに書いていたことに具体例を与えたような感じだなと思いました。良かったです。

note.com/swim_think/n/n3c855c6

ダイブというのが完全に精神分析でしかないと思うんですが(それで知った内容を第三者にバラしてはいけないところとか)、この作品自体あまり批評家たちの注目を集めなかったのか、論じられてるの見たことがないです。

なぜかアルトネリコのプレイ動画を見てます。高校か大学のとき一回見てました。
序盤のオリカって愛想悪いとかのレベルじゃなくてちょっと不安になるキャラ造形してますね。

先の記事では宵崎奏のことを何か狂気的な確信のもと作曲に突き進んでいる人、みたいにそっけなくまとめてしまいましたが、私も事実として睡眠時間や人間関係を削って部屋を荒れたままにして何時間もキーボードを叩いており、それが誰かのためになると信じたがるところはあるので他人事には思えません。
本当に自分の楽しみのためだけに何か書いたり作ったりしていると思うなら、適当なところで切り上げられるはずだし部屋を片付けて寝るべきです。

その点、『車輪の国』の森田健一はまあそこそこ大丈夫でした。

でも最近は男性向けノベルゲームの主人公の言動に嫌悪感が起きて続けられないことが多いです。ONEの体験版を途中までやりましたがずっとこれなら正直キツイなと。

備忘録。メモリーズオフhistoriaがSteamで安いのですが買うか迷っています。高校のとき6をやった気がしますが記憶ないので

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