前BTs まとめると世論の喚起、市民の蜂起しかない。
少数政党が多数派を動かすのはそれしかない。
それとこの問題は基本的人権の話だからそれの侵害をしよう!という人達の声を自民党・公明党が聞いてること自体が異常だとの認識は持ってほしい。

あと野党第一党の立憲民主党が求心力を失ったのって泉健太が野党共闘を捨てたからじゃんね。
キョロ充やってさ。
そんで右にウィングを広げるで墜落してるのも泉健太じゃんとツッコミは入れておく。

それと当事者からすれば廃案を求めるのが道理でしょう。
求めるなとは言わない、そんな言い方はマジョリティの傲慢ですよ。

求めるなとは言わないとは言ってないですよー。求めるのは自分も当然だと思います。その上で、立憲にだけ求めるのではなく、自公に求めている姿を見せた方が有効ですよ。という話です。一応そこはちょっと言いたいことは違うので訂正を。

自民・公明に廃案するよう圧力をかけるのは当事者以外、この場合はいわゆるマジョリティの責務でしょうね。

「当事者」というのは外国籍の方、というご認識なのかな、と想像しながらお話しをお聞きしていますが、その理解で大丈夫でしょうか? いわゆるマジョリティがちとどこまでの層を示しているのかが分かりませんでした。
(その事態そのものにも問題があると思いますが、という前置きの上で)選挙権がない方達のためにも入管の収容や強制送還に直接は晒されない人間も声を上げるべきだ、というのは自分も同感です。
また、だいすけさんが仰っているように、これは基本的人権の問題だと自分も思うので、だからこそ、その点では人権をもった人間のひとりというある種の当事者意識ももって、基本的人権を踏み躙る事を許すような法案は許し難い、と政治の最前線に立つ人々には伝えて行きたいと思います。かつ、より強大で「わかっていない」方に大変だけど言わないとだなあと思います。これは自分の場合は当事者として、ということにはなりますが。

この問題の当事者はおっしゃるとおりに外国籍の方々という認識です。
この問題の範囲は日本国内ですからマジョリティは外国籍の方々以外のすべて。

そしてこれは基本的人権の問題ですが狙い撃ちされているのは外国籍の属性を持つ方々のみ。
またその属性ゆえに日本国では抗議や批判の前面に立つのはとてつもなく難しく厳しい。
なのでその属性を持たないマジョリティ側(日本国内において様々な抗議・批判の手段を持つ側)が基本的人権を侵害されている当事者側のために戦う責務があると考えています。

基本的人権の問題だから広げればマジョリティも当事者と言えなくもないとは思いますが、やはりそれは遠い。
人権侵害に対する抗議・批判をしにくい外国籍の方々の苦難を看過せず、抗議・批判がきるんだからやれ!というのがシンプルでいいと自分は考えています。

義を見てせざるは勇無きなりだと思うんですよね。

ありがとうございます! いわゆるがなくなってマイノリティとマジョリティの範囲が確定できて、範囲の話が自分の頭でも理解できるようになりました。

先に全体の理解をおくと、どういう意識の持ち方で関わるかが違うのであって、どの範囲の人間が抗議や批判の声を上げる状態が理想か、という点は一致しているのかな。と思いました。

「外国籍ではない日本在住者全体が、入管法改正案は基本的人権を侵害する要素を含む法案であると認識し、抗議や批判の声を上げる」(べきという意識を持ってほしい、まで一致しているのかな? と思いつつ)状況が望ましいとお互い思っている中で、方法論やそこへの向き合い方が違う、ということなのかな。と推定しています。

ここまで理解大丈夫でしょうか。

(続きます)

(続きます)

一方で、関わる際の心持ちについては、違いがあるんだなー、と感じました。

自分は関わり方やモチベーション、個々の理由や、問題に向き合う意識の持ち方はそれぞれだと思うので、だいすけさんがその態度をシンプルと感じて良いと感じるなら、だいすけさんはその態度で良いのだと思います。

自分の場合は、だいすけさんが「遠い」と仰った事を、自分が「近い」と感じたり、だいすけさんがシンプル、と感じることを今自分は複雑だなあと感じます。
(違いを批判する意図はないです。違って当然のことですからね。どっちが正しいという話でもないのも当然ですが、一応念の為)

(さらに続きます)

当事者の方の声が軽視されがち、軽視しがちな人間が少なくない数いる。では動けるのは誰か、というあたりは認識が近いのかな、共有できているかな。と思いますし、範囲が確定したので自分はマジョリティの側で、マジョリティとしてできることがあるな。という認識ができるようになりました。その立場なのだから、というある種のノブレスオブリージュ的な意見も意味はわかるなーなるほどなーと感じることもできるなあ、というのが今の感覚です。

ただ、やはり自分の素直な感覚で言うならば、マジョリティである自分とは違う少数者が攻撃されているからその代わりに戦う、という意識の持ち方より、同じ人間の人権が尊重されていないのが嫌だし、怖いから声を上げる。という言語化の方が、シンプルで近いという言葉になります。

自分はその方が動きやすい、でもありますね。ただ、それは自分型の見方ではあるので、見方や感じ方そのものを同一化すべき、と言っているように聞こえたなら本意ではなく、自分にとってはその「感じ方の統一」はよろしくない。という認識でいるので、そう感じた点あればご指摘ください。

(次で最後です)

して、最初に送った訂正の話に戻すのですが、それこそ当事者の方に求めるなと言ったつもりはやはりなく、それ以外の今回の件で言う「マジョリティ」の方にも求めるなではなく、言うなら与野党問わずの方がいいんじゃないかなあ、という意見として言ったつもりです。世論喚起のために、という目的はだいすけさんが理解してくださった通りですね。

で、ですね。ただ、この求めるなと言ったつもりはない、というのは、何をどう逆さに振っても自分では「つもり」にしかなれないものなので、説明させていただいた見方を確認していただいて、ここがマジョリティの傲慢である、という点を示してもらえれば引き取り考えてみようと思います。
長くなってしまったので、読むのも大変かなあ、違う感じ方を一度受け止めるだけでもカロリーは思考に使うものだものなあとは思うのですが、こちらの心づもりはこちらに置いておきますね。

自分の認識は「レイシズムとは何か 梁 英聖」が基本になっています。
まず間違いなく自分が説明するよりもこちらを一読するほうが早いので読んでみてください。
入管の問題は在日韓国人・在日朝鮮人の方々の苦難の延長線上であり、これもまた統一協会(統一教会)=国際勝共連合が政治への影響力を持ち得たのと同じく逆コースが起因であるとも理解できると思います。 

chikumashobo.co.jp/product/978

んん〜〜わかりました。本は読んでみます。

ただ、だいすけさんの言葉として発されて、こちらが訂正した点について、今だいすけさんはどう認識し、どうこちらの説明を受け入れたのか、または受け入れていないのかなどの、今だいすけさんがお持ちの理解については、だいすけさんからだいすけさんの言葉で説明していただきたいと思います。

その本はこちらが説明したように、だいすけさんの背景をこちらが知る一助にはなると理解しますが、自分と対話をしたことでの変化などはわからないなあと思うからです。(他、シンプルに労力もかかりますしね!)

また、お願いしてある、こちらの言葉が「求めてもいい」と読めた点について今もその理解なのか、こちらを含んで(と理解をしましたが)マジョリティの傲慢と感じる点の「今回自分がした投稿」についての具体的な指摘は、本から探すのは難しいなあと思います。コレもだいすけさんと自分では、読み方が違うだろうと思うからですね。なので、本人書いてあるというなら、該当箇所を抜いて、だいすけさんの読み方を説明してくださると幸いです。

(それこそ当たり前ですが)だいすけさんとはものの見方がまずだいぶ違うので、同じものを見ても同じように理解できるとは思わないので、こちらの理解のためにもよろしくお願いできれば幸いです。

自分がなぜそう考えるのか?について認識のすり合わせをする余裕が今の自分にはありません。
「レイシズムとは何か」を読んで自分の認識、ゆるーすさんの表現で言うならば見方が変わりましたのでまずは本を読んでみてください。

なるほど。余裕がないということであれば、その点了解しました。

ただ、であればこちらからの訂正については「求めるな、と言ったつもりはない」という訂正は取り下げず、提示した説明のまま置いておこうと思います。
こちらの意見のまとめや汲み取りではなく、実情を的確に表しているかでもなく、だいすけさんの感想であるということならば納得です。感想であれば、内容の汲み取りの精度は問題にならないですしね。認識のすり合わせが不能なのであれば、違うので違います。という訂正をさせて頂ければこちらとしては問題はありません。

その上で、本については、こちらに変わってほしい感情が存在していて(どこをどのように変えたいのかも明示されていないために、今理解できてはいませんが)、その欲求のために本を読んでほしいと言われている。という理解でいます。
自分の側からは欲求が漠然とした状態で渡されて感じていることと、経験上その「変化」のご期待には添えないだろうと予測を立てていますが、今日予約してきたのですが、本の方届くまで数日かかるのでお時間を頂くことにはなるかと思います。

また、様々余裕持てないご事情あると思いますが(此方にもありますしね)、擦り合わせが不能な状態、というものがそもそも理解を阻む壁であり、一方的なレッテル貼りにつながってしまうと考えているため、好ましくないな、と感じるのですね。
なので、本を読む時間をとるぶんの間に、だいすけさんが余裕をもち、言語化をしてくださるといいなーと此方としては要望をおいておきたく思いました。本当に今、だいすけさんの仰っていること、よくわからないままなので……!

読んでくださることに感謝します。
この話題についての自分の考えを言語化して互いの認識を摺合せるのは非常に労力が必要ですが、それでもわかりやすいものはなにか?とぐるぐる考えていました。
本来は日本国の事例で摺合せを行えばいいのですがそれには前提となる歴史的知識や歴史の客観視が必要です。しかしそれは難しい。焦点となる歴史的知識は広く知られておらず、またそれの客観視は大日本帝国の本質の客観視であり、日本国にそれが引き継がれていることを認めることでもあるからです。
なのでこれらは紹介した本の中に任せて一旦置きます。

なのであえて他国の事例、アメリカのを用いてまとめます。

【なぜ「Black Lives Matter」は「All Lives Matter」と言わないのか?】

これと同じです。
社会の構造(歴史的経緯を含む)と被差別者の属性が問題の焦点だと前者は明確に指摘していますが、後者はそれをずらし隠蔽するものとして機能している。

本にはこれと同じことが日本でもさらにひどいものとして存在していると解説されています。
衝撃的な内容だからこそ御自分で読んでみてほしいのです。

【なぜ「Black Lives Matter」は「All Lives Matter」と言わないのか?】

については、自分の理解と言葉で話すのであれば、その言い方では差別されている側が誰なのか、その背景はなぜなのかがボヤけてしまうから。誤魔化しやカウンターとしての作用が働いてしまうから、ですよね? だいすけさんの「社会の構造(歴史的経緯を含む)と被差別者の属性が問題の焦点だと前者は明確に指摘していますが、後者はそれをずらし隠蔽するものとして機能している。」という理解は共有化できるものと感じています。

その「言葉」ではなぜダメなのか。という意味で、「All Lives Matter」という言葉ではダメな理由、理屈は自分にも納得ができる理屈です。

なので、その理屈は理解できるとした上で、「こちらの言葉」のどの箇所が具体的にどのように「All Lives Matter」と「同じ」であると判断したのかをお尋ねしています。(つもりにしかなれないので、受け止める用意があると言ったのはこの点です)


この点についての説明がなく、また、ゆるーす投稿の内容についての話なので、本を読んでも「だいすけさんがゆるーすの投稿を読んだ感覚」が書かれているわけではない以上、そこについてはだいすけさんの言葉で振り返りと説明がないと、こそこちらが「変わる」「反省する」「振り返る」「修正する」にも困るために、ここについては繰り返しお尋ねをしています。
(なぜ、「だいすけさんの言葉で説明を」と要望をださせていただいているのかの理由でもあります)

自分の感覚で言えば、「All Lives Matter」と同じであると感じるのは、「みんなの基本的人権を守ろう!」などの、入管の問題から話を逸らしてしまう話し方です。
確かにそれは「All Lives Matter」と同質の言動であり、マジョリティの傲慢と評されても仕方ないものだと感じます。

ただ、自分は入管法改正から逸らしたつもりはなく、「誰が」「今」被害を受けているのかを誤魔化したつもりはありません。誤魔化しになっている、という指摘をされるのであれば、こちらの言葉のどこが「同じ」なのか、抜き出しでご指摘頂ければ幸いです。

「誰が」「今」まできたら、その次は「ある特定の属性を持つ「誰」が「今」その構造により被害を受けているのは別の「誰」が「過去」に加害のための構造をつくりあげたから」になります。

この問題のマジョリティ側は日本人の属性を持つ側であり、加害者。
日本人である自分もまた加害者側です。
加害の構造を維持させていますからね。
そして加害者側だからこそ被害者の代わりに声を上げる責任が生じます。
これはノブレス・オブリージュではなく贖罪です。

ALMが批判されるのは被害者とその構造をボヤかすだけでなく加害者の存在とその責任、自覚もまたボヤかすからです。

こういうことが「レイシズムとは何か」に日本国の歴史的経緯も交えて詳しく書かれています。

なるほど、贖罪として向き合う、という考え方があるのはひとつ形としてわかりました。自分には馴染みませんが、そのような向き合い方、考え方、視点は重要であると思います。
また。日本人が構造的に加害者側であるという事は否定しません。

それと、本の方も読み進めているのですが、これお話を読み返しても実体としては最初にお伝えしたように、違っているのは向き合い方の違いというか、それもどういう言葉が馴染むかの違いなんでは……? と感じています。

どうやらALM(的なもの?)をこちらの発言をみて想起したんだな? とは感じているのですが、まだそれがどこなのかが全く手に届かない状態です。本の方も読み進めていますが、自分の発信のどこがALM的意味を発生させてしまっていたり、「求めるなと言っている」のかがわからないので、もしも「指摘」として作用させたいお気持ちがあるのであれば、重ねつつ改めてになりますが、具体的にこちらの発信から該当箇所を抜き出していただければと思います。

また、語彙の問題かなあと思ったので、「当事者」という言葉をもう少し詳しく説明しておくと(当事者と言えなくもない、と仰っていたので、おそらくご理解頂けているとは思いますが)語として「当事者」という言葉には「加害者」も含まれるものとして、自分は「当事者」という言葉を使っています。

自分も構造的に加害者側であるという認識の下、ただ、誰に何を優先的にいうべきと感じるかは違っているのだろうなと思います。

だいすけさんの「目的」は明示されていないのでわかりませんが、自分は

目的:
未来に渡り、人権侵害行為を生じさせないこと。
現状起きてしまっている人権侵害行為は解消していくこと

として動いています。

現状は加害者と被害者を発生させてしまう、という状況と構造に問題があるので、解決されねばならない。と思っています。

で、その解決のために努力することは、基本的人権の存在を掲げた国民として、基本的人権という仕組みを維持するための責任だと自分は考えています。
これは被害者と呼ばれる人が(まだ)いない場合においても、人権を毀損される被害者が生まれ得るのであれば、同じように問題として認識する(できる)理屈として、自分なりの向き合い方として持っているものです。

これは本の本文中にあった、反差別とは。の両輪として挙げられていた、被害者の権利を守り、また、加害者の差別を禁止すること、という規定に矛盾するものでも、逸脱するものでもない、と自分としては感じています。

なので、いや、逸脱している、矛盾している、問題のある考え方だ、マジョリティの傲慢だ、と指摘する場合「今回マストドンで此方がとった言葉で、どんな問題が発生するのか」を教えて欲しいのです。

ALMの問題性はわかるのですが、ALMという語の問題性を説明されても、どうそれがこちらの言動に繋がっていて、なぜ訂正を了解してもらうことができないのか(これも何故かは不明だが訂正の意思を毎回スルーをされている、と感じているので、この理解でいいのかもわからんのですが……)が本当にわからないので、理解力が足らなくて申し訳ありませんが、「こういう考え方があって〜」のような今回の元の発信から例題に移動した話ではなく「今回の発信のここの文章と文言がこうだからこう」という形で教えていただけたらと思います。

余裕については無理を言いたくはないので、ある時で、と思いますし、こちらも返事にお時間頂いているので、無理なくとは添えておきます。

P.12~13ですか。
これの後段で「だが日本にはそのような反レイシズム規範がない。」とあるように、なぜそのようなものがないのか?=差別の構造はなぜつくられて維持されてるのか?、またその構造のどのような部分がいかに移民・難民へのレイシズムを支えているのかが「レイシズムとは何か」の中で解説されています。

や、それを示すことで、だいすけさんが何を言いたいのかが不明なので説明していただきたいと言っているのですが……すごく不明瞭な態度なので、読み進める間中、余計な「?」がたくさんでてしまうので、読む作業を進めるためにも先に疑問を解決させてほしいです。

フォロー


言いたいのは差別問題の原因となる構造、構造の歴史的経緯・背景、属性を捨象して基本的人権のみに差別反対の理由を収斂させることそのものがマジョリティの傲慢であるとのことです。
ある差別問題において誰が矢面に立たなければならないのか?と考えるときにさきほどのものを捨象して基本的人権のみに収斂させれば全員となります。
差別されている側もやらなければならないとなる。基本的人権ですから。
この負担そのものが二次加害でしょう。

捨象しないためには客観視に基づく構造の歴史的経緯・背景の理解が必要です。
そして「レイシズムとは何か」はまさにここを突く内容ですから読んでほしいのです。

「言いたいのは差別問題の原因となる構造、構造の歴史的経緯・背景、属性を捨象して基本的人権のみに差別反対の理由を収斂させることそのものがマジョリティの傲慢であるとのことです。」

ここはまるっと理解も同意もできます。で、その上で、こちらとしては、

1、そもそも元々の話として元の発信が『入管法』について語っている以上、捨象はしていません。元々の発信が「立憲にいえる立場にある人」つまり日本国在住のここまででた話の定義で言えば、「構造上の加害者側」の人間に向けた発信です。

2、また、こちらは自分と同じようにやれ、考えろという主張は全くしていません。関わり方でどう自分の問題として意識するかば違っていい。と主張をしています。

だいすけさんからは、向き合い方は統一されねばならない、そうでなければ批判の対象である、という方向性を受け取っていますが、こちらはそれとは違う立場からお話をしています。

よって、こちらの問題への向き合い方を、「やらなければならないとなる」というように他者への同じ態度を求める行為と連結させて語るのは、だいすけさんが別の事を癒着させている、と感じます。

以上、2点を認識の相違点としておいておきます。

ざっくり向き合い方が統一されなければならないという方向性には同意・同調ができない、というのがこちらからお伝えするべきことになるかなと思います、

こちらとしてはレイシズムとは何か(今の所、知識として興味深く読んでいます)に対しても、だいすけさんの加害者と被害者の非対称性をぼかすのは良くない、というご意見にも異論はないですし、繰り返しになりますが、だいすけさんの向き合い方は此方はそれで良いと思っています。
それは分離できるもの、分離していて問題ないものを癒着させて見えます、という指摘はさせて頂きたいですし、要請ではないものを要請として受け取られることを許容することはできませんが(それはそれで弊害があると考えています)、被害者の立場にある人々に更なる行動を要請するのは問題がある、という点は合意可能です。

なので、今回の反省ではなく、今後も合意可能点に留意する事は続けようかと思います。というのがこちらからのレスポンスになります。

「レイシズムとは何か」を読んでいただいてる。
それだけで自分の目的は達成されました。
ありがとうございます。

欲を言えば読後に

13th -憲法修正第13条-
youtube.com/watch?v=krfcq5pF8u

観ていただければ嬉しいです。
1952年体制との共通点も出てきますから。

読めば理解できる、読んで貰えば達成とは、今回の場合、自分は思わないため、こちらの訂正や説明をどう受け止めていただけたのかわからないままなのは、こちらとしては不十分という感想ではあります。中々十分に至るものではないので、そこは致し方ない面もありますが。
本自体は面白く読んでいたのですが、一方的な解釈で評価を与えられて、その訂正から入った途中で出た本を読ませることが目的だった、と言われてしまうと、現状の残念な感情で本や内容に向き合いたくはないな、という感情も沸いてはしまいますね。なので、後半を読むのは中止して、本の方とは時間をおこうと思います。別のどなたかに別な形でおすすめとして聞いて、新しく出会いなおせることを楽しみにしたいと思います。

問いに応えていただいた点について、全てではないにしろ疑問に答えて頂けた点については、だいすけさんご自身が労力をかけてくださったことに感謝しています。ここまでお付き合いありがとうございました。

「レイシズムとは何か」、あの内容を面白く読めるのは客観視できているので凄いと思います。
自分は日本社会のレイシズムの根深さと具体例として提示された在日朝鮮人・在日韓国人への差別の実例に日本人として反省しなければならないと心が震えました。
今現在の入管法の問題と直結しているとの記述がまた衝撃でした。

一言でどう読めているとされて、それが凄いと評価されても自分事とは受け取れませんが、ひとりの人に影響を与えた本なのだな、ということはよくわかります。今自分が暮らしている国のひとりとして、今起きている問題に自分というものがどう繋がっていくのかを知る、確認していくには良い本なのだろうなとも。つくづく、今、このよう流れで出会いたくはない本でした。
元々入管法改正がが被害者である外国人の方達の権益の保護ではなく、逆に被害を広げる改悪であると理解し、差別構造と戦うという意思があるのはここまでで確認できていると思いますので(だいすけさんが此方をどう思っているのかはわかりませんが)、入管での人権侵害行為とそれを助長する法律案の成立に反対の意思を持つ加害者側の人間として、自分たちが加害者側であるという認識もない人に声を伝えていくのを工夫しながら頑張りましょう。お互いに。伝える範囲をどうとるか、どう工夫するかは異なるでしょうが、次の方には本の最後まで向き合う気力が継続する形で出会いを繋げられるといいなと思いました。

「レイシズムとは何か」は名著ですけどおっしゃるような流れを確認するという点では説明不足でもありますよ。
具体的にはP.141〜143

ここには
「日本人の戦争観 戦後史のなかの変容」
iwanami.co.jp/book/b256356.htm
が必要だと思います。

>自分たちが加害者側であるという認識もない人達

こういう表現を用いてくれたことが非常に嬉しい。
こういう人達が入管法についても多数存在するのは日本国の与野党問わずのいわゆる右派・保守派がすすめるいわゆる歴史戦、歴史修正主義推進の結果の一つだと捉えています。

大日本帝国から整備されて現在も新興宗教近代天皇制を宗教と認識させずに信仰させる仕組みが日常生活に存在すること、これとさきほどの歴史修正主義推進とが合わさってこういう人達が多数存在するのだと考えています。

つまり
>自分たちが加害者側であるという認識もない人達
≒大日本帝国から日本国に意図的に引き継がれている差別をもたらす構造を認識していない人達

この認識させない仕組みが日常生活に存在しているため個人レベルの工夫で上手く伝えるのは凄まじく難しいと考えています。
そういう人達にとって入管法の問題は他人事でしかなく同時に基本的人権の保護という最大公約数すら認識外だからです。

ずっと色々と考えていたのですが、やはり自分が納得できないなあ。と思うのでお話を続けます。

本、というこちらが読む努力をしないといけないものを紹介するのは、言語化の努力を省いている意味で説明として納得ができません。
言語化の労力を支払ってほしいと思います。こちらの言語化をずっとスルーされた状態にあるために、余計に本を紹介されても、読む気力が削がれるばかりです。

また

>>自分たちが加害者側であるという認識もない人達

>こういう表現を用いてくれたことが非常に嬉しい。

のは、そもそもなぜですか?

なぜ嬉しがられているのだろう、と考えたときに、嫌な想像がいくらでもできてしまうので、とてもとても不愉快な気持ちになる、という事は、せめてお伝えさせて頂こうかと思いました。そういう人間がいるのだ、そう感じる人間がいるのだ、という事をまず理解していただけていないのだろう、と思うので、これはまず、お知らせです。

なお、レイシズムとは何か、は、だいすけさんとのやりとりを理解する上ではなんら効果を発生しませんでしたが、他のところで有効に使えるために読み終わりました。

「レイシズムとは何か」P.141~143と書きましたがP.141~144と訂正させてください。
「反レイシズム2.0のドイツと反レイシズムなき日本の違いを生んだもの」です。

ここのまずこれを「日本人の戦争観 戦後史のなかの変容」で補強できます。
>しかし日本の場合、朝鮮戦争という熱戦を通じてつくられた「東アジア冷戦構造」のなかで、新中国・ソ連を封じ込める米国のアジア戦略に規定されるかたちで昭和天皇はじめ戦争責任の曖昧化に成功し、「国民の象徴」として天皇制も温存させることに成功した。

これが「日本人の戦争観 戦後史のなかの変容」第1章~第3章にて詳細に語られています。
それを思いっきり切り詰めて乱暴に要約すると「日本側は信仰対象として天皇制・昭和天皇ヒロヒトを保持したい、アメリカ側は日本そのものを冷戦のコマとして使いたいので統治に役立つ天皇制・昭和天皇ヒロヒトを保持したいと利害が一致したので東京裁判では軍部に責任がなすりつけられて天皇制・昭和天皇ヒロヒトは生き残った」ということです。


>>自分たちが加害者側であるという認識もない人達

>こういう表現を用いてくれたことが非常に嬉しい。

ここは以下のものを認識してくれつつあるのかと考えて嬉しいと表現しました。

>自分たちが加害者側であるという認識もない人達≒大日本帝国から日本国に意図的に引き継がれている差別をもたらす構造を認識していない人達

その構造を理解してくれつつある、という認識になっている段階で、「此方がそれをそもそも理解していない前提」が敷かれていると読めるのです。

そして、それは、こちらの認識をナチュラルに下に置く、という行為になります。
つまり、ずっと下に置かれ続ける、という状態になるんですね。こちらとしては。

下に見てでお話しされてた、という事で良いのでしょうか。

こちらとしてはその状態に置かれ続けながら話をされるのが本当に苦痛なので、その点態度改めていただけるかどうかを確認したいです。

いらっしゃるのは見えてるんですが、読み返していて不安になったので、一点質問を追加しておきます。

そもそもとしてだいすけさんが何を言いたいか「ではなく」、こちらの主張内容がなんなのか、きちんと把握できていらっしゃるのでしょうか?

こちらの言っている事を理解できている、と思える証明が現状まで一切いただけていないので、その点からしてまず不信に思っています。

そして、こちらからした説明への理解進捗無開示のまま、なぜか確認ではなく、認識を持っていない前提を敷いて語る行為をされているので、こちらへの決めつけ、偏見が作用していないか? と疑問に思っています。

きちんと一度、ご自身の態度を振り返っていただいた上で、こちらを下に見ている事を自覚して今までの態度とられているのか、それとも自覚なくそうなってしまっているのか、どちらだったのかだけでもせめてお答えいただければと思います。

1、こちらの認識を侮った物言いになっているのは自覚的に行なっている行為ですか?

2、こちらの主張内容をどう把握されていますか?

こちらから確認したいのはこの2点になります。そちらの目的は本を読んだ事で達成されているとのご趣旨の発言がありましたので、まずこちらの疑問にも答えていただきたいと思います。

そろそろ6月になってしまいますが、引き続き回答お待ちしております。

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