前BTs まとめると世論の喚起、市民の蜂起しかない。
少数政党が多数派を動かすのはそれしかない。
それとこの問題は基本的人権の話だからそれの侵害をしよう!という人達の声を自民党・公明党が聞いてること自体が異常だとの認識は持ってほしい。

あと野党第一党の立憲民主党が求心力を失ったのって泉健太が野党共闘を捨てたからじゃんね。
キョロ充やってさ。
そんで右にウィングを広げるで墜落してるのも泉健太じゃんとツッコミは入れておく。

それと当事者からすれば廃案を求めるのが道理でしょう。
求めるなとは言わない、そんな言い方はマジョリティの傲慢ですよ。

求めるなとは言わないとは言ってないですよー。求めるのは自分も当然だと思います。その上で、立憲にだけ求めるのではなく、自公に求めている姿を見せた方が有効ですよ。という話です。一応そこはちょっと言いたいことは違うので訂正を。

@mstyursu 自民・公明に廃案するよう圧力をかけるのは当事者以外、この場合はいわゆるマジョリティの責務でしょうね。

「当事者」というのは外国籍の方、というご認識なのかな、と想像しながらお話しをお聞きしていますが、その理解で大丈夫でしょうか? いわゆるマジョリティがちとどこまでの層を示しているのかが分かりませんでした。
(その事態そのものにも問題があると思いますが、という前置きの上で)選挙権がない方達のためにも入管の収容や強制送還に直接は晒されない人間も声を上げるべきだ、というのは自分も同感です。
また、だいすけさんが仰っているように、これは基本的人権の問題だと自分も思うので、だからこそ、その点では人権をもった人間のひとりというある種の当事者意識ももって、基本的人権を踏み躙る事を許すような法案は許し難い、と政治の最前線に立つ人々には伝えて行きたいと思います。かつ、より強大で「わかっていない」方に大変だけど言わないとだなあと思います。これは自分の場合は当事者として、ということにはなりますが。

@mstyursu この問題の当事者はおっしゃるとおりに外国籍の方々という認識です。
この問題の範囲は日本国内ですからマジョリティは外国籍の方々以外のすべて。

そしてこれは基本的人権の問題ですが狙い撃ちされているのは外国籍の属性を持つ方々のみ。
またその属性ゆえに日本国では抗議や批判の前面に立つのはとてつもなく難しく厳しい。
なのでその属性を持たないマジョリティ側(日本国内において様々な抗議・批判の手段を持つ側)が基本的人権を侵害されている当事者側のために戦う責務があると考えています。

基本的人権の問題だから広げればマジョリティも当事者と言えなくもないとは思いますが、やはりそれは遠い。
人権侵害に対する抗議・批判をしにくい外国籍の方々の苦難を看過せず、抗議・批判がきるんだからやれ!というのがシンプルでいいと自分は考えています。

義を見てせざるは勇無きなりだと思うんですよね。

ありがとうございます! いわゆるがなくなってマイノリティとマジョリティの範囲が確定できて、範囲の話が自分の頭でも理解できるようになりました。

先に全体の理解をおくと、どういう意識の持ち方で関わるかが違うのであって、どの範囲の人間が抗議や批判の声を上げる状態が理想か、という点は一致しているのかな。と思いました。

「外国籍ではない日本在住者全体が、入管法改正案は基本的人権を侵害する要素を含む法案であると認識し、抗議や批判の声を上げる」(べきという意識を持ってほしい、まで一致しているのかな? と思いつつ)状況が望ましいとお互い思っている中で、方法論やそこへの向き合い方が違う、ということなのかな。と推定しています。

ここまで理解大丈夫でしょうか。

(続きます)

(続きます)

一方で、関わる際の心持ちについては、違いがあるんだなー、と感じました。

自分は関わり方やモチベーション、個々の理由や、問題に向き合う意識の持ち方はそれぞれだと思うので、だいすけさんがその態度をシンプルと感じて良いと感じるなら、だいすけさんはその態度で良いのだと思います。

自分の場合は、だいすけさんが「遠い」と仰った事を、自分が「近い」と感じたり、だいすけさんがシンプル、と感じることを今自分は複雑だなあと感じます。
(違いを批判する意図はないです。違って当然のことですからね。どっちが正しいという話でもないのも当然ですが、一応念の為)

(さらに続きます)

当事者の方の声が軽視されがち、軽視しがちな人間が少なくない数いる。では動けるのは誰か、というあたりは認識が近いのかな、共有できているかな。と思いますし、範囲が確定したので自分はマジョリティの側で、マジョリティとしてできることがあるな。という認識ができるようになりました。その立場なのだから、というある種のノブレスオブリージュ的な意見も意味はわかるなーなるほどなーと感じることもできるなあ、というのが今の感覚です。

ただ、やはり自分の素直な感覚で言うならば、マジョリティである自分とは違う少数者が攻撃されているからその代わりに戦う、という意識の持ち方より、同じ人間の人権が尊重されていないのが嫌だし、怖いから声を上げる。という言語化の方が、シンプルで近いという言葉になります。

自分はその方が動きやすい、でもありますね。ただ、それは自分型の見方ではあるので、見方や感じ方そのものを同一化すべき、と言っているように聞こえたなら本意ではなく、自分にとってはその「感じ方の統一」はよろしくない。という認識でいるので、そう感じた点あればご指摘ください。

(次で最後です)

して、最初に送った訂正の話に戻すのですが、それこそ当事者の方に求めるなと言ったつもりはやはりなく、それ以外の今回の件で言う「マジョリティ」の方にも求めるなではなく、言うなら与野党問わずの方がいいんじゃないかなあ、という意見として言ったつもりです。世論喚起のために、という目的はだいすけさんが理解してくださった通りですね。

で、ですね。ただ、この求めるなと言ったつもりはない、というのは、何をどう逆さに振っても自分では「つもり」にしかなれないものなので、説明させていただいた見方を確認していただいて、ここがマジョリティの傲慢である、という点を示してもらえれば引き取り考えてみようと思います。
長くなってしまったので、読むのも大変かなあ、違う感じ方を一度受け止めるだけでもカロリーは思考に使うものだものなあとは思うのですが、こちらの心づもりはこちらに置いておきますね。

@mstyursu 自分の認識は「レイシズムとは何か 梁 英聖」が基本になっています。
まず間違いなく自分が説明するよりもこちらを一読するほうが早いので読んでみてください。
入管の問題は在日韓国人・在日朝鮮人の方々の苦難の延長線上であり、これもまた統一協会(統一教会)=国際勝共連合が政治への影響力を持ち得たのと同じく逆コースが起因であるとも理解できると思います。 

chikumashobo.co.jp/product/978

んん〜〜わかりました。本は読んでみます。

ただ、だいすけさんの言葉として発されて、こちらが訂正した点について、今だいすけさんはどう認識し、どうこちらの説明を受け入れたのか、または受け入れていないのかなどの、今だいすけさんがお持ちの理解については、だいすけさんからだいすけさんの言葉で説明していただきたいと思います。

その本はこちらが説明したように、だいすけさんの背景をこちらが知る一助にはなると理解しますが、自分と対話をしたことでの変化などはわからないなあと思うからです。(他、シンプルに労力もかかりますしね!)

また、お願いしてある、こちらの言葉が「求めてもいい」と読めた点について今もその理解なのか、こちらを含んで(と理解をしましたが)マジョリティの傲慢と感じる点の「今回自分がした投稿」についての具体的な指摘は、本から探すのは難しいなあと思います。コレもだいすけさんと自分では、読み方が違うだろうと思うからですね。なので、本人書いてあるというなら、該当箇所を抜いて、だいすけさんの読み方を説明してくださると幸いです。

(それこそ当たり前ですが)だいすけさんとはものの見方がまずだいぶ違うので、同じものを見ても同じように理解できるとは思わないので、こちらの理解のためにもよろしくお願いできれば幸いです。

@mstyursu 自分がなぜそう考えるのか?について認識のすり合わせをする余裕が今の自分にはありません。
「レイシズムとは何か」を読んで自分の認識、ゆるーすさんの表現で言うならば見方が変わりましたのでまずは本を読んでみてください。

なるほど。余裕がないということであれば、その点了解しました。

ただ、であればこちらからの訂正については「求めるな、と言ったつもりはない」という訂正は取り下げず、提示した説明のまま置いておこうと思います。
こちらの意見のまとめや汲み取りではなく、実情を的確に表しているかでもなく、だいすけさんの感想であるということならば納得です。感想であれば、内容の汲み取りの精度は問題にならないですしね。認識のすり合わせが不能なのであれば、違うので違います。という訂正をさせて頂ければこちらとしては問題はありません。

その上で、本については、こちらに変わってほしい感情が存在していて(どこをどのように変えたいのかも明示されていないために、今理解できてはいませんが)、その欲求のために本を読んでほしいと言われている。という理解でいます。
自分の側からは欲求が漠然とした状態で渡されて感じていることと、経験上その「変化」のご期待には添えないだろうと予測を立てていますが、今日予約してきたのですが、本の方届くまで数日かかるのでお時間を頂くことにはなるかと思います。

また、様々余裕持てないご事情あると思いますが(此方にもありますしね)、擦り合わせが不能な状態、というものがそもそも理解を阻む壁であり、一方的なレッテル貼りにつながってしまうと考えているため、好ましくないな、と感じるのですね。
なので、本を読む時間をとるぶんの間に、だいすけさんが余裕をもち、言語化をしてくださるといいなーと此方としては要望をおいておきたく思いました。本当に今、だいすけさんの仰っていること、よくわからないままなので……!

@mstyursu 読んでくださることに感謝します。
この話題についての自分の考えを言語化して互いの認識を摺合せるのは非常に労力が必要ですが、それでもわかりやすいものはなにか?とぐるぐる考えていました。
本来は日本国の事例で摺合せを行えばいいのですがそれには前提となる歴史的知識や歴史の客観視が必要です。しかしそれは難しい。焦点となる歴史的知識は広く知られておらず、またそれの客観視は大日本帝国の本質の客観視であり、日本国にそれが引き継がれていることを認めることでもあるからです。
なのでこれらは紹介した本の中に任せて一旦置きます。

なのであえて他国の事例、アメリカのを用いてまとめます。

【なぜ「Black Lives Matter」は「All Lives Matter」と言わないのか?】

これと同じです。
社会の構造(歴史的経緯を含む)と被差別者の属性が問題の焦点だと前者は明確に指摘していますが、後者はそれをずらし隠蔽するものとして機能している。

本にはこれと同じことが日本でもさらにひどいものとして存在していると解説されています。
衝撃的な内容だからこそ御自分で読んでみてほしいのです。

【なぜ「Black Lives Matter」は「All Lives Matter」と言わないのか?】

については、自分の理解と言葉で話すのであれば、その言い方では差別されている側が誰なのか、その背景はなぜなのかがボヤけてしまうから。誤魔化しやカウンターとしての作用が働いてしまうから、ですよね? だいすけさんの「社会の構造(歴史的経緯を含む)と被差別者の属性が問題の焦点だと前者は明確に指摘していますが、後者はそれをずらし隠蔽するものとして機能している。」という理解は共有化できるものと感じています。

その「言葉」ではなぜダメなのか。という意味で、「All Lives Matter」という言葉ではダメな理由、理屈は自分にも納得ができる理屈です。

なので、その理屈は理解できるとした上で、「こちらの言葉」のどの箇所が具体的にどのように「All Lives Matter」と「同じ」であると判断したのかをお尋ねしています。(つもりにしかなれないので、受け止める用意があると言ったのはこの点です)


この点についての説明がなく、また、ゆるーす投稿の内容についての話なので、本を読んでも「だいすけさんがゆるーすの投稿を読んだ感覚」が書かれているわけではない以上、そこについてはだいすけさんの言葉で振り返りと説明がないと、こそこちらが「変わる」「反省する」「振り返る」「修正する」にも困るために、ここについては繰り返しお尋ねをしています。
(なぜ、「だいすけさんの言葉で説明を」と要望をださせていただいているのかの理由でもあります)

自分の感覚で言えば、「All Lives Matter」と同じであると感じるのは、「みんなの基本的人権を守ろう!」などの、入管の問題から話を逸らしてしまう話し方です。
確かにそれは「All Lives Matter」と同質の言動であり、マジョリティの傲慢と評されても仕方ないものだと感じます。

ただ、自分は入管法改正から逸らしたつもりはなく、「誰が」「今」被害を受けているのかを誤魔化したつもりはありません。誤魔化しになっている、という指摘をされるのであれば、こちらの言葉のどこが「同じ」なのか、抜き出しでご指摘頂ければ幸いです。

@mstyursu 「誰が」「今」まできたら、その次は「ある特定の属性を持つ「誰」が「今」その構造により被害を受けているのは別の「誰」が「過去」に加害のための構造をつくりあげたから」になります。

この問題のマジョリティ側は日本人の属性を持つ側であり、加害者。
日本人である自分もまた加害者側です。
加害の構造を維持させていますからね。
そして加害者側だからこそ被害者の代わりに声を上げる責任が生じます。
これはノブレス・オブリージュではなく贖罪です。

ALMが批判されるのは被害者とその構造をボヤかすだけでなく加害者の存在とその責任、自覚もまたボヤかすからです。

こういうことが「レイシズムとは何か」に日本国の歴史的経緯も交えて詳しく書かれています。

なるほど、贖罪として向き合う、という考え方があるのはひとつ形としてわかりました。自分には馴染みませんが、そのような向き合い方、考え方、視点は重要であると思います。
また。日本人が構造的に加害者側であるという事は否定しません。

それと、本の方も読み進めているのですが、これお話を読み返しても実体としては最初にお伝えしたように、違っているのは向き合い方の違いというか、それもどういう言葉が馴染むかの違いなんでは……? と感じています。

どうやらALM(的なもの?)をこちらの発言をみて想起したんだな? とは感じているのですが、まだそれがどこなのかが全く手に届かない状態です。本の方も読み進めていますが、自分の発信のどこがALM的意味を発生させてしまっていたり、「求めるなと言っている」のかがわからないので、もしも「指摘」として作用させたいお気持ちがあるのであれば、重ねつつ改めてになりますが、具体的にこちらの発信から該当箇所を抜き出していただければと思います。

また、語彙の問題かなあと思ったので、「当事者」という言葉をもう少し詳しく説明しておくと(当事者と言えなくもない、と仰っていたので、おそらくご理解頂けているとは思いますが)語として「当事者」という言葉には「加害者」も含まれるものとして、自分は「当事者」という言葉を使っています。

自分も構造的に加害者側であるという認識の下、ただ、誰に何を優先的にいうべきと感じるかは違っているのだろうなと思います。

だいすけさんの「目的」は明示されていないのでわかりませんが、自分は

目的:
未来に渡り、人権侵害行為を生じさせないこと。
現状起きてしまっている人権侵害行為は解消していくこと

として動いています。

現状は加害者と被害者を発生させてしまう、という状況と構造に問題があるので、解決されねばならない。と思っています。

で、その解決のために努力することは、基本的人権の存在を掲げた国民として、基本的人権という仕組みを維持するための責任だと自分は考えています。
これは被害者と呼ばれる人が(まだ)いない場合においても、人権を毀損される被害者が生まれ得るのであれば、同じように問題として認識する(できる)理屈として、自分なりの向き合い方として持っているものです。

これは本の本文中にあった、反差別とは。の両輪として挙げられていた、被害者の権利を守り、また、加害者の差別を禁止すること、という規定に矛盾するものでも、逸脱するものでもない、と自分としては感じています。

フォロー

@mstyursu 読み進めていけば答えを得られると思いますよ。
歴史的経緯そのものを説明するところもありますから。

うーん、どうして意図を説明してもらえないのだろう? というか、意図を説明しない理由はせめて教えていただけませんか……

これ、こちらがお願いしていることに対して回答がないままなのは、まだ「余裕がない」からでいいんですか? それ以外にだいすけさんがその出力になっている理由が不明なのですが、今。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。