アメリカなどでの文脈は分からないけど、日本ではここ数年特に統一教会の問題で「宗教右派」という言い回しが普及しており、そのなかで特定の信仰を異常・異端なものとしてスティグマ化する動きが目立ってきてた。
「宗教右派」はそもそも、ひとつの宗教のなかで「左派」「右派」と分ける時の表現だけど、日本では本来の使われ方から逸脱して、「宗教」=「保守」「差別主義」とスティグマの固定化のために機能してしまっている。
だから、宗教者として自分をアイデンディファインしつつ、「宗教右派」をやめてほしいと言ってる人たちがいる。
この異議を唱える中には、ムスリムやムスリマなど周縁化され、日本社会の中で現に脆弱な立場に置かれた人たちも含まれてる。
わたしはそういう認識だった。
使う者の意図やコンセンサスではなく、人権とは生きた人間の話なので、そうした現実を塗りつぶしかねない「差別ではない」の断定はだいぶ危ないのでは?
1・2年前に信仰を持つ(この持つ/持たないの区別自体が微妙だとも思う)当事者が「宗教右派」を使わないでほしいと言っているのを見かけてから、わたし個人は使わないようにしてた。
すぐに結論が出なかったとしても、誰かの生存を脅かす危険性があるのなら、「とりあえず使わない」の判断もありだとわたしは思う。
べつの言い回しでも表現できるのが言語のいいところなんだから