「宗教右派」という言葉は宗教差別か? 宗教の論評について考える
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“先ほども説明したように「宗教右派」という言葉は政治スペクトラムを現した用語のひとつであり、あくまでラベルです。ニュートラルな意味で使われます。政治と宗教の関係性を論評する際に用いられているだけで、侮蔑の意図では基本は使われません。
原則的に「宗教右派」を差別用語とみなすコンセンサスはありません。実際、多くのメディア、ジャーナリスト、研究者、人権団体が、この「宗教右派」という用語を使用しています。
しかし、「宗教右派」は政治イデオロギーを示す用語である以上、当然、そこには政治的対立が生じます。ここが厄介です。
「宗教右派」という言葉は宗教差別だと主張する人たちがいます。それは主に「宗教右派」と名指しされる人たちです。「宗教右派」という用語は当人が自身で用いるラベルではありません。もっぱら他者が政治と宗教の関係性を論評する際に使います。”
シネマンドレイクさんのブログいつも読んでたけど、これは腑に落ちないかな。
そんなはっきり「差別ではない」と断定してしまっていいの?
アメリカなどでの文脈は分からないけど、日本ではここ数年特に統一教会の問題で「宗教右派」という言い回しが普及しており、そのなかで特定の信仰を異常・異端なものとしてスティグマ化する動きが目立ってきてた。
「宗教右派」はそもそも、ひとつの宗教のなかで「左派」「右派」と分ける時の表現だけど、日本では本来の使われ方から逸脱して、「宗教」=「保守」「差別主義」とスティグマの固定化のために機能してしまっている。
だから、宗教者として自分をアイデンディファインしつつ、「宗教右派」をやめてほしいと言ってる人たちがいる。
この異議を唱える中には、ムスリムやムスリマなど周縁化され、日本社会の中で現に脆弱な立場に置かれた人たちも含まれてる。
わたしはそういう認識だった。
使う者の意図やコンセンサスではなく、人権とは生きた人間の話なので、そうした現実を塗りつぶしかねない「差別ではない」の断定はだいぶ危ないのでは?