AセクシュアルだけどAロマンティックではない人がいたり、Aセクシュアルだけど性嫌悪がないひとがいたりするのはまったく事実だが、だからといって「じゃあAセクでも恋愛できるんだ🎵」とか「じゃあセックスできるね🎵」とか都合よく「解釈」されて、AロマンティックAセクシュアルやAセクシュアルで性嫌悪な人の存在が不可視化されるとしたら、悪質だなぁと思う。
ただでさえ、AロマンティックやAセクシュアルは「見えない性的指向」と言われてたやすくいなかったことにされるのだから、当事者が防衛的になるのはしかたないことかと
自分の発言で、誰かがなにかを言うことを躊躇わせてしまったいたら嫌だな。
「当事者」といったって、みんなが同じように感じるわけがない。一つのものを好意的に感じる人、不安に感じる人がいて当然。
問題は、マジョリティ社会が自らにとって都合のいい「当事者の意見」だけをもてはやし、都合の悪い意見がなかったことにされてしまうこと。
ちょうど、『ゴールデンカムイ』の作者やファンダムがやっていたようにね。
わたしは、日本で「オタク」を自認する人たちに期待はほとんどできなくなってしまったけど、現実にそのセクシュアリティやアイデンティティを背負っている人間がいると想像する人たちがもしいたとしたら、どんなにいいかと思うよ