「中国の作品は嫌い」とまで思わなくても、たとえば「中国語はうるさい」「汚い」から、中国語音声のアニメを鑑賞することに抵抗があるって人は少なくないでしょう。
でも『羅小黒戦記』の字幕版が最初公開された時、びっくりするくらいみんな「中国語ってきれいなんだと分かった」って言ってた。
そりゃ、日本語だって訓練を受けたプロの声優やアナウンサーの発音を聞いたら「きれい」に聞こえるのと同じだと思う。
そもそも、日本人として日本で生きてたらきちんと中国語に触れる機会ってほとんどない。小学校のときから英語に対しては「かっこいい」「海外の」ことばとしてまじめに触れる機会があっても、中国語はない。
なぜかといえば、日本の国としての外交方針、あるいは旧植民地や国内の在日華人華僑の人たちへの向き合い方と無関係ではないとわたしは思う。
そう考えた時、わたしたちの「好き」「好ましい」という感覚すらも、政治や社会や慣習に影響を受けていないとは言えないんじゃないかと。
オタクは「好き」があれば細かい話や難しい話は要らないっていうけど、「好き」「嫌い」だってそんなに無垢で不可侵な感覚だとはわたしは思わないんだよ。
キム・ジヘの『差別はたいてい悪意のない人がする』では、上司が部下に対して、あるいは誰かが同性愛者に対して「嫌い」だと表明するのは、各々の権力を考えたとき問題があるということを言っていた。
わたしはいじめサバイバーだから、10代のときから「(自分含め)誰かがみんなに嫌われてる」という空気には敏感で、無邪気な「嫌悪感」に追い詰められていく個人という図式は数えられないくらいよく見てきた。
「好き」「嫌い」という感情は、個人的で神聖で侵すべからざるものとはやはり思わない。他人の「嫌い」で生活や身の安全が脅かされるような状況は間違っていると思う。「自業自得」という見方も拒否する
https://fedibird.com/@cutmr/111395440950324504 [参照]