ひと付合いの不幸
嫌々ながらひとと付き合うというのをどこまで許容するか。
正直に言って、そういったものを許容していられるほど自分の人生に余裕はないと感じる。
忍耐強く我慢しつつひと付合いを遂行するのはあまりにも骨が折れる。
そして与える事の美徳よりも身を削られる痛みの方をより強く感じてしまう。
自分自身の幸福を他の誰かが用意してくれる訳ではなさそうだという事が歳を重ねるにつれ、一層強く認識されてくる。
痒いところに手が届かせるのはつまりは自分であって、親しい誰かという訳でもなさそうに思われる。
そう思う時、どうして自分の幸福の追求について不熱心でいられようか?
そしてしぶしぶひとと調子を合わせている時、にこやかな表情の裏では己の人生と生き方における不忠実と背信を自分が行なっているのを認識している。
つまりは不誠実な生き方をしていると自分は罪悪感に苛まれる。
紅茶と健康
少し文明的というか文化的な生活をおくってみようかな等と思って、昨日はスーパーの紅茶コーナーの前をウロウロしていた。
その時に気付いたのはコーヒーの健康に関する影響については既に幾らか情報を得ていたと思われる一方、紅茶のそれに関してはあまりよく知らないという事だった。
知らないからといって買わないというのはやり過ぎだろう等と思って、取り敢えず紅茶を買った帰った。
帰宅後に少し調べてみると、ポリフェノールやら抗炎症化作用だのシュウ酸の話やらが出てきて全く知らない話ばかりではないようだった。
やはりコーヒーに比べて知識が少なかった事は確かそうだと思うが、紅茶に関しては普段あまり飲まないが故にそれに関連する知識を思い出すのが難しかったという事もあるのかもしれない。
余談だがコロナに紅茶が効くというようなコロナ禍初期の情報が出てきて、昔はそんな話も出てきていたな等と少し懐かしく思った☕
外部からの検索に対して公開設定にする事によって、自分は利益と害のどちらを多く受け取るのだろうか?
壁打ちしていればそれで良いような気もするのだけれど、確かに同好の士や興味深い発言をするひとと知り合えたら嬉しくも思うだろう。
自分が誰かを探しに行くという観点においても、X(twitter)では見掛けないタイプのひとと出会えるのかもしれない。
そしてそもそもXから流出したものの、まだ繋がれていない興味深い誰かというのも居るのかもしれない。
一方、twitterや何かのコメント欄のように見知らぬ誰かからいきなり攻撃される事もあり得るのだろう。
それらについては単にブロック等してしまえば良いだけの話ではあるのだろうが、心理的安全性が低下してしまうならば思った事を気軽に書きづらくなるのではという懸念を抱いてもいる。
https://twitter.com/SystemsVirology/status/1703566467617399290?t=sq_kNt5y6-kZPWWX8zKBGA&s=19
新型コロナウイルスの進化の変遷の話。
3部に分かれている。
色々な変異体が出てきて何が何だか分からなくなっているひとも多いのではないかと思うのですが、経過の理解と状況の把握が感染対策を継続する意欲を湧かせるのではと思うが故にリンクを張った次第です。
展望を欠くと、感染対策が投げやり•疎かになったりしうるかと思いますので……。
フーガ(音楽)を好む。
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