思うところがいろいろあるものの、多岐にわたるのでまとめるのめんどくせ、ってなってよくない沖縄関係問題への言及……

一応メモとして残しとく

・石垣在住の沖縄県民が辺野古容認の根拠として「金武も辺野古も自治体が米軍基地を誘致した」という過去を持ち出して「だから反対してる奴らは頭がお花畑」みたいなことを言ってるのを見た
・過去も今も何かを政治的に選択するときは「今と今から予想できる範囲の未来に可能な限り最大の利がある選択肢をとる」ことが多くて、それは最善の策ではないことが多々ある
・そういう選択を取り続けてきたことで、長い時間をかけて自分たちにとって不利益を被ることを容認する土壌を培ってしまった、ということを踏まえて、新たに基地を作ることは大元の問題をさらに長期化させることになるから反対してる人たちがいる、と私は思う

60〜70年前の人たちが良しとした結論を「いやそれは良くないやろ」と翻すいまのひとまちがいる、っていう話だと思うんだけどな。。大事にしたいものとか、状況とか、社会情勢も変化してるし、人権意識だって向上してるはずじゃん。

っていうのを、こう、ちゃんと語れるようになりたいんだけどな、情報ソースも添えて。。

代執行手続きかぁ……。
返すって言って自分たちが言った期間内に返してない、返すためには辺野古に新しく作らんといかんって言い出す、しかも作っても機能上不足があって辺野古の新基地より普天間基地をそのまま使いたいって米軍側は言ってて。
辺野古新基地が完成するまで普天間基地は返還されないってこと? 最初に言ってたんと違うんじゃない? 作ったところで米軍側は辺野古新基地は現行の普天間基地のようには使わんのでは? だって滑走路短いし。戦略上、辺野古新基地では役割を果たせないとか言って普天間基地が返還されない、なんてことになったら目も当てられないけど、そこんとこちゃんと合意取れてんの? 日本側が一部の人の「もうこう言っちゃったし今から反故にするなんて出来ないからこれで進めましょ」で通そうとしてないよね? だいじょぶそ?

ってずっと思ってる……。
jiji.com/jc/article?k=20231225


昨日の晩からずぅっと考えごとをしていて、きっかけはクリスマスソングの世代別〜みたいなテレビ番組を母が観ていて、10・20代の選んだクリスマスソングがSEKAI NO OWARIのDragon Nightだったこと。
Fukaseさんが第一次世界大戦のときのクリスマス休戦を題材にして作った曲だ、とファンの方が仰ってて「そうなんだ」と驚いてから、ずぅっと考えていて。

今日は自分が過去に「ハクソー・リッジ」を映画館で見て書いたブログ記事(どちらも現在は非公開、近いうちにリライトしたい)を読み直して、また考えてた。

Ubuさんをゲ謎のブログ記事で知ってこちらでフォローし、UbuさんがBTしてるのを見てコインさんをフォローし、興味深くて追えるだけ過去のトゥートを拝読してから、今まで言語化できてない、知らなかったことで突き止めることができてなかった観点を得たことで、こう、二次元のグラフが三次元になったみたいな感覚で、これまで思考してきたことを三次元で置き換え作業をし続けてる感じ。

その考えごとのなかで、植民地化すること・されること、植民地化された結果、した側と同化していると感じる自分自身はどう成り立ってきたのか。言語か、教育か。アイデンティティは何によって規定されていくのか……。

ひとまずメモ。

BT
こっこちゃんのこの、難しいことは言わないで、シンプルに直球ど真ん中を突く表現はさすがだなぁと思う。
2019年の記事なのか。我が家は親父がタイムスとってるけど、私は新聞は気が向いた時にしか読まないから新報とってても気づけなかっただろうな。

ノーと言えばノーに変わると信じて、でもダメで、そのたび傷ついてきたから、若い人たちが同じように傷ついてしまうのを苦しく思うし支えたいと思う、というようなことを答えていて、そうなんだよね、と思った。
無力感は人を削るし、すり減りたくないから人は鈍感になっていくんだけど、それを冷笑として他者にも浴びせるような、そうしないお前が悪いんだろと言うような姿勢はとりたくない。自分を守るために「大丈夫、そうなることはわかっていた」と言い聞かせるとしても、子どもたちや若い人たちに「そうしたら楽だよ」と言うのは違うと思う。

何もまとまらんけど。

Fedibird

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