Twitterが当初画期的だったのは、その人の現実の時系列をぶった斬ってそのツイート140文字の価値だけを問題にした事で、その人が何処にでもいる高校生だろうと世界的な研究者であろうと会社経営者であろうと界隈の有名人だろうとその140字においては同じことを書けば等価である、という理念的なラディカルさにあったと思う。
今や個々のツイートの拡散力は発言者のリアルな業績や社会的立場による重し付けに収束していてそういう面白さはなくなった。SNS内でのコンテクストも持ってしまった。ここで戦えているのは一部の成りあがり極右ヘイトアカウントだけという皮肉。彼らだって政党や国からの支援がバックにあったことが明らかになりつつある。
TikTokやYouTubeはそうでもないんじゃ?無名な人も実力でアテンションを得てない?という意見もあるかと思うがわたしからするとあれこそ身体と文化資本という現実への最終回帰でお疲れ様でしたって感じだ。
それでも無いよりはマシなことは言うまでもないし、そういったことにはグラデーションがある。一概に良いとか悪いとかってことではない。なにがどれくらい生き残りなにがどのくらい破壊されたかという話。当然イーロン・マスクの悪口だけ言えば済む話でもない。
当時マジコンに搭載されて大流行りしていたマルチメディア再生ソフトを作っていた人の、個人サイトの2011年版をInternet Archiveで見ていた。そこにはTwitter APIを当たり前のように呼び出して実現したTwitter便利ツールがいくつも並んでいた。
私は在りし日のTwitterは二度と帰ってこないことを確信した。
#fedibird
私は寝ない。いや寝ないことはないのだ。生き物だから。けれどおそらく極限に近くショートスリーパー。昔インターネットを始めた頃、メーリングリストさえ楽しくて仕方がなく、夜中まで夢中になっていた。全世界から東京都市博(笑!)へのメッセージをもらうhello-Tokyoというのを始め、仕事半分趣味半分で夜中3時頃まで世界中のおっちゃんたちの相手を辿々しい英語でしていた。
ある時、あるメンバーが東京では真夜中をとうにすぎていることに気がついて大変な騒ぎになった(大袈裟ではなく
続
イケオジがマーモットになめられ続ける動画
https://youtu.be/6vh5jLCAT1k
面白い視点の記事だった。イーロン・マスク氏は、実は古い世界の人間なのかもしれない。手掛けてるビジネスの分野が新し目なだけで。
逆にTwitterの方が、時代を先取りしすぎて資金面で行き詰まったのかも。創業者のジャック・ドーシー氏は、「情報の対価」の面で新しいことが見えていたんだなあ。それに先立つRSSの話があってのことだけど。
fedibird.com を根城にしています。
BlueskyはBridgy Fedを使って再投稿しています。
写真系。