先日、今更ながらの映画「怪物」観たんです。
難しい造りだけど、優れた表現の、いい映画だと思いました。
炎上を受けての是枝監督のインタビューも読んだけど、確かにこれはマイノリティに向けた映画ではない。
「フツー」でいいよ、というメッセージを善意で発している側、ここだと湊のお母さんとか保利先生、を肯定的に捉えるマジョリティ層に向けてる。
Not for meが事前に分からないで物語のからくりに引っ張られて観てしまうと、確かにキツいのかもしれない。
社会課題を載せて、かつより多くの人へ届けるように造られたために、巻き込み事故みたいになってしまう。
ストーリーに触れてるので一応cw
オープンエンド自体は、表現の形としてわたしは悪いものではないと思う。物語の中での救済が、現実の問題の救済に繋がるとは限らないのだし、結果が希望のあるものか、残酷なものかは明示されず、鑑賞者の中にくすぶって残るのはありだろう。
そこは好き嫌いの範疇で語ればいいかなと。
わたしは湊のお母さん、保利先生の立ち位置に居るので、身につまされまくる。
二人が、ひっくり返った電車の泥水溜まった窓を必死で擦るシーンは、すごい表現だと思った。カメラは車内側から撮ってるんだけど、掻き分ける手が見えてもすぐまた黒い泥に覆われる。
流れ込む泥水は、あちら(マジョリティ)側。そこで救いになろうと頑張っても、内側からは光明が見え隠れするだけ。
そして二人がようやく窓を開けても、子どもたちはもう見つからない。母ちゃん痛いですよ…
マジョリティには、この痛い体験が必要だと思う。現実で大事な相手を失う前に映画体験でできるなら、やはり観るべき、と思う。