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『マルモイ』感想 

韓国の情報に触れるようになると、韓国の人々のウリマル(韓国語)に対する非常に強い誇りと愛着を感じることがしばしばある。
理由の一つは、ハングルが市民の識字率を上げるために世宗によって考え出された文字であり、普及には命がけの紆余曲折があったこと。
そしてもう一つには、日帝によって言語を奪われた歴史があるからだ。『マルモイ』はその略奪の歴史を分かりやすく、映画として見やすく描いた作品と言える。単語一つ、それを期した紙一枚を命がけで守り伝えようとした人々。なぜなら「言葉はすなわち民族の精神」だからである。つまり言葉を奪うのは言葉民族の精神を奪うことだった。
映画を見返して気づかされるのは、主な舞台となるのは朝鮮語学会の人々はもちろん、朝鮮語の教師、作家など言葉に携わる仕事をしていた人々が、言葉の重要さを理解しているからこそ奮闘していたことだ。職業人であることは、ただその時言いつけられた仕事をこなすことではなく、職業が本来持っている公共性をまっとうすることかも知れない。『1987』では新聞記者が、『マルモイ』では教師や学者たちが、その役割をまっとうする。
映画の中盤辺りで、日帝に寝返った文人に絶望したドンイクは糞尿をばらまく。今、日本には糞尿をばらまかれるべき職業人があまりにも多い。

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