ボランティアが炊き出しのカレーを食べる云々 

なんかTwitterでは被災地を訪れた山本太郎が炊き出しのカレーを食べたことが批判の的になっているらしく、そういう批判をする人って支援活動をしたことないだろうなって感じだ。現実的に想像してほしいのだが、炊き出し現場にボランティアが来て被災者が「一緒にどうぞ」というのを頑なに断ったら、普通に気まずくなって終わりだろう。なぜこれが「立派な考えの人だわ」ではなく気まずい感じになるのかを考えると、ボランティアが炊き出しを食べることの意味って意外と深いなと思ったので覚え書き。
まず被災地のような物資不足が懸念される場所に行く場合、腹が減って活動できないようじゃ本末転倒なので自分の食料など持っていくのは当然だろう。また、ボランティアに来てやったんだから支援してもらう側が衣食住を提供すべきなんて態度は(もし実際にいるなら)きっぱり断り、批判するべきだ。
けど、炊き出しが行われるような状況で「被災者の一食を奪わないために勧められても断る」ことに意味があるだろうか。むしろ否定的な効果しかないように思う。→続く

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ボランティアが炊き出しのカレーを食べる云々(続き) 

意図しなくても支援者と被支援者の間には権力関係が生まれがちだ。ちょっと大げさに感じられるかもしれないが、炊き出しを分け与えようとする申し出を頑なに断るのは「私は支援し与える人、あなたは支援され貰う人」という関係性を相手に押し付ける態度である。
「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、日本では(おそらく一定の時期以降)同じものを一緒に食べることは単に栄養補給以上の意味を持っている。特に炊き出しのように一つの鍋から食事ををみんなで食べることは、文字通り"分かち合う"行為であり、連帯感や関係の親密さ/対等さを感じさせる。それはボランティアに分け与えた一食を節約して被災者が食べることよりもずっと大きな意味を持つだろう。被災者だって、パンのみに生きるにあらずだ。

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