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Twitterを開くとイスラエル・パレスチナ関連のことをきっかけにしたワードがトレンドに並び、それを見るとインプレッション稼ぎの無関係な投稿や、映画や漫画の画像を使った大喜利のような投稿が散見されて、SNSでなにかを発信することの意味がわからなくなってしまいますね(Twitterに限らずどこも似たような感じなのでしょう)。

いくら善意や熱意をもって発信しても、そこに悪意や「笑いのネタ化」を被せて覆うことができてしまう、そういうシステムになってしまっていること、しかしそのシステムを使わなければ発信できない状況にある者もいるということ。言いようのない苦しさがあります。

インプレッション稼ぎや大喜利をしてしまうこと、この他人事感がいったいどこから来るのか。本当に他人事だと思っているのか、なんらかの防衛機制的なものから生じるものなのか。いずれにせよ、もはや他人事ではないのだけど、そうやって危機感を表明することすら「(第三次世界大戦とか言って)煽ってる」などと距離を置かれてしまう;距離を置くことが「正しい/冷静な/客観的な」振る舞いだとされてしまう。

現実から逃避することによって、現実と向き合うための力も回復する。しかし、逃避しすぎると現実そのものが崩壊してしまう。ゆえに、そのバランスをうまくとらねばならないのだけど、そのための余裕すら奪われてしまっているということなのかもしれない。

「諦めたらそこで試合終了だよ」「大切なものは失ってから気づく」的なものが、あまりにも「名言化」しすぎていて、それらを本気で信じること/実践することができないままでいる。これもまた余裕のなさからくるものなのかもしれないですね。名言にして、つまり理想化して、絶対に実現不可能なものとして認識してしまえば、それはただ「唱えるだけで十分」なものになってしまう。そうしないと、もはや生活がままならない。私もそのひとりだと思う。余裕がない。大文字の「体力」がない。

「それでも それでも」とやっていくほかないのだけど、少しずつ、それができる者がいなくなっていく。実現可能性の低いもの、実現するまでに時間がかかるもの、そういった「報われなさを実感させられる」ものごとに、向き合い続けることは簡単ではない。そうしていつしか離脱していった者たちを、弱者や愚者として切り捨てたとしても、状況はなにも変わらない。それもまた、非常に苦しい。

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