「日本の『同化政策』で失われた言葉、もはや回復しない」
https://japan.hani.co.kr/arti/international/51341.html
A perfect day for running !
昨晩パートナーの実家に行って、大量の飲み物と食べ物を摂取したので、夕方近所の小川沿いを走る。
今朝、階下の雨戸を開けに行こうと外階段を下りた時にから足を踏んで、左ふくらはぎに少しだけど違和感。今日はいつも以上に優しい着地を心がけて10キロ走った。秋らしい気持ちのいいラン日和、もう少し長く走りたかったが我慢。
聴いたポッドキャスト、個々については書かないが、感じたこと。
ネタニヤフが1年前にインタビューで発言していたようにイスラエルのゴールは、人質の救出でも、ハマスの壊滅でも足りない。
第二次大戦の日本帝国やナチのような無条件降伏状態にまでパレスチナ人民を追い込み、領土を占領、軍が駐留、パレスチナ(及びレバノン?)傀儡政権下に置き、米国が日本にやったように属国のように実質的に支配すること。その手前での停戦は多分ない。
悲観的すぎて嫌になるが、どんなにグローバルサウスが声を上げても、欧米各国の政府が「Antisemitism(反ユダヤ)」という呪縛から抜け出せないなら、ジェノサイドの終わりは見えてこない。
全然読めていなかった「安楽死が合法の国で起こっていること」を少し読み進めた。
ヨーロッパには安楽死後臓器提供が法制化されている国が複数あるらしい。
そんなのいいのか…?「安楽死」に誰かの役に立つという意味を持たせてはいけないんじゃないか…?
安楽死を本人が決める時に「臓器提供で誰かの役に立つなら」が背中を後押しするのを避ける、ってどうすれば可能なんだ?
>安楽死の話する時「医療面であらゆる手を尽くした上で」という前提で話してる場合が多いと思うけど、そもそもその前提がクリアできない場合が現実にはたくさんあるのでは
それで思い出したこと。
学校での事故で重篤な障害を負った人の保護者の方へのインタビューで読んだ話。
列車事故(福知山の事故と思われる)被害者が何ヶ月もの意識不明を経て奇跡的に回復した、都会の先進的大病院に治療を頼みに行った。
上記の例や深刻な病状から回復した著名人の例を挙げてどうにか治療してもらえないか頼んだ。
医師は施しようがないといい、こう答えた。
「あの方々は社会的影響力の大きい人なので、基準度外視のケアをしなければいけなかった。それは列車事故の被害者の方も同じです」
回復の見込みがないと判断されてもなお基準度外視の治療が受けられる場合とそうでない場合があると、患者は平等ではないと…。
断るにしたってそんな答え方があるか?と読んでてショックを受けた。
受けられる医療が平等ではない時点で、安楽死の話する以前の問題だよってなる。
付け加えると、その学校での事故で深刻な状態にあった人の住んでいた地域は社会インフラが整っておらず、医療的ケアも薄かったという話をしていた。
きのこ。しろい。くろい切株が好物