おなじノンポリでも、いまの糸井重里の意見には反対できるが、井上陽水の「傘がない」に描かれた若ものには反対できないのは、後者が芸能としてすぐれているからだ。これが芸術のあぶないところ。芸としての優劣と作品にふくまれた意見の可否はまったく関連しない。それでも芸がすばらしいとうけ手は意見に共感するようになる。
芸術は政治にべつの価値かんをもちこんで序列を強制てきに変えるちからを政治せりょくから期待される。
クーデター阻止と発表 ウクライナ - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/pickup/6506299
毎年恒例、岩波文庫一括重版の情報が出ました
https://www.iwanami.co.jp/news/n57720.html
岩波文庫の「2024年7月26日 重版再開」とあるものが該当。数年前から春のリクエスト復刊がなくなったたので、一括重版は毎年この時期だけ。気になる本はあるかな…?
#読書 #fedibird
【鹿児島県産を神戸ビーフに偽装】「技能実習生も多く管理が適当」異なる原産地や牛種を表示して牛肉を販売 「個体識別番号」も使い回す〈カンテレNEWS〉
https://www.youtube.com/watch?v=zDMHoHXlLL8&feature=youtu.be
産地偽装を技能実習生のせいにしてるのか。
それで同意が得られると思ってそういう弁明をしてるわけだよな。
毎度毎度ウンザリさせられるなジャパン。
「楽しくなければ、俳句じゃない!」って、ちょっと残酷だと思っています。
「伸び悩んでる!苦しい!」と実際には思っているのに、「これも"楽しい"と思わねば!」と二重に苦しい。
技術向上には訓練がいるので、苦しいので普通なんだよね。それを楽しめるかどうかというのは、それぞれ「能力」や「環境」などの制約がある……。
(「俳句に"才能"などはない」というのもある種真実ではなく、能力による制約はある。俳句の「余白を読ませる」というのは、「空気を読ませる」に近い部分があり、これができるか/やりたいかには、さまざまな特性に依る。俳句の高さは開かれているが、俳句などやりたくない!というのも、容易に想像できる)
雲仙・普賢岳災害当時の各組織の動きについては廣井脩, et al.『平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応』という一級資料がある
面白いのでお勧め
http://cidir-db.iii.u-tokyo.ac.jp/hiroi/report/summary/37
こんなことがあったのか
https://mainichi.jp/articles/20240605/k00/00m/040/320000c
雲仙・普賢岳については、被害が拡大した最大の要因は「専門家や行政が"混乱を避ける"という理由から、歴史的に火砕流についての情報公開を避けていた」ことにあると言われていて、この時も現地の観測所の連絡が大幅に過小評価されて(「異常」を「変化」、「危険な状態」を「様子がおかしい」に言い換えるなど)いた
「人災」の側面を指摘するならリスクコミュニケーションの問題についても指摘するべきだと思う
きのこ。しろい。くろい切株が好物