Yutoreadsbooks 文京洙『新・韓国現代史』(岩波書店2015年)。日本の植民地支配の終わりから朴槿恵政権までの韓国の歴史を、国政政治の点から包括的にまとめている。筆者によれば、1945年の日本の「敗北」は朝鮮の「勝利」ではなく、朝鮮半島の政治的統治をめぐって出現したその「空白」は、各地に様々な自治や住民の組織化を生みだした。しかし、それもすぐに米ソによる南北分割の思惑に呑まれ、朝鮮半島は日帝の植民地支配のせいで戦場と化す。冷戦のただなかで復興を目指すことになった韓国だが、植民地支配への反省や生産を拒む日本の態度をめぐって、日韓基本条約締結は韓国社会に分断をもたらした。70年代の経済成長と、光州事件を始めとする激しい人民弾圧、全斗煥による80年代の軍事独裁から民主化闘争へと続いていく韓国の現代史からは、血のにじむような努力の末に、時代と政権を民衆が動かしてきたという日本との違いを感じざるを得ない。昨今の戒厳令→弾劾のニュースが気になって手に取った本だったが、今後もたびたび参照するだろう。
https://www.iwanami.co.jp/book/b226364.html
PFASに関しても、そのうち、今まで原子力PAやってた連中が国から金をもらって安全バイアス強調したPAを大々的にやりだすだろう。原爆、水俣、いつも同じやり方だものね。
うちの地元は福島核災害のときの除染で発生した放射能汚染土の処理方法で10年以上も揉めた。市はなかったことにしようといろいろと画策したけど、なかったことにできるはずもなく。ココだけの話、当時千葉県は県立公園で出た高濃度の除染汚染土の処分場所の一つに柏の葉キャンパスそばにあった県の持ってる公有地をその処分地候補にしていたけど、三井側から強硬に反対されて速攻で断念していた。まあそりゃそうだろうなとね。
あの時、自分の街の話でもあるし状況について徹底的に調べたんだけど、環境省が事故から1ヶ月後には除染で生じた汚染土処理のために放射性廃棄物などの危険物質の法律規制を緩和して、全国各地に持ち運び自由に出来るように動き出してた。あまりに早いその動きを見ていて「汚染希釈」して誤魔化す、というロジックを容易に持ち出してきたのは、当時からPFAS問題を環境省はある程度把握していて、その処理も念頭に置いてこのロジックを持ち出してきたんではないか?という疑念を長年持ち続けてんのよね、俺は。誰かにちゃんと調べてほしいんだよな
QT: https://fedibird.com/@gaitifuji/113657007585672278 [参照]
Yutoreadsbooks 芦名定道ほか『学問と政治 学術会議任命拒否問題とは何か』(岩波書店2022年)。菅首相(当時)による、日本学術会議会員任命拒否事件について、6人の研究者がその問題性を論じる。1章の岡田は学術と政治の関係をめぐる歴史に事件を位置づけ、2章の加藤は歴史学者らしく、事件の背景の1つと考えられた2017年の学術会議の声明発出までの議論の経過をたどり、任命拒否を正当化する与党の理屈を検証、3章小澤は憲法15条の(国民による)公務員選定罷免権と首相の任命拒否権の関係を整理し、4章松宮は政府による多面的な学術軽視を事件と結び付け、5章芦名はキリスト教思想も参照しつつ、任命拒否をされた6名がいずれも人文学研究者だったことに注意を促すとともに、「ポスト真実」状況における学術への敵視を事件に見出している。ただ、本書を読むと分かるのは、この任命拒否は端的に違法であり、かつ学問の自由への深刻な挑戦であるということ。学術会議「改革」が目くらまし的に議論されているが、惑わされてはならないと思う。
https://www.iwanami.co.jp/book/b603071.html
ノーベル平和賞メダル「重たかった」 被団協代表委員が帰国会見―長崎:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2024121301062
こんな酷い話があるか。
(東京新聞の池尾さんの呟きより)『11月にブラジルに強制送還された日本育ちの20歳女性。母国に着いた後3日にわたり空港から出られず、空港のベンチで過ごしていたと証言しました。
現地に身寄りがなく所持金もない女性に入管は何らの支援もしていませんでした。
法務相は「適切な対応だった」と…。
』
(東京新聞の記事より)『 11月8日夜に強制送還され、ブラジル南部サンパウロの空港に9日夕(日本時間10日早朝)に到着。しかし、在日ブラジル総領事館に一時的な宿泊先として勧められたNPO施設に空きがなく、12日朝まで空港内のベンチで過ごした。「バッグなどを盗まれないよう、警戒して眠れなかった」と話した。
所持金は支援者がカンパした2万円だけ。空腹をクッキーでしのいだ。交流サイト(SNS)で、幼少時に施設で別れた弟の名前を発見。弟とその養父母の元へ、サンパウロから16時間かけてバスで移動した。今もこの家庭で暮らす。「とてもつらかった。精神的な傷を受け、治療を受けている」と明かした。 』
「精神的な傷、治療を受けている」母国に身寄りがないのに強制送還 行くあてもなく空港のベンチで3日間…:東京新聞デジタル https://www.tokyo-np.co.jp/article/373656
Objects and suitcases that did not fit inside were placed on heaps between the barracks. Some prisoners who worked there lived in two of the barracks and three barracks belonged to the camp administration.
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Listen to our podcast about the plunder of property in Auschwitz: https://creators.spotify.com/pod/show/auschwitz-memorial/episodes/On-Auschwitz-35-Plunder-of-the-property-of-Auschwitz-victims-e280762
14 December 1943 | The construction of a warehouse-camp (Effektenlager) was completed at the BIIg sector in Auschwitz II-Birkenau camp. Prisoners, as well as SS men, called in "Canada".
In the Effektenlager, which was located near gas chamber and crematorium IV and the men’s hospital sector (BIIf), there were 30 wooden barracks. 25 of them were used as warehouses where things stolen from Jews deported to the camp for extermination were sorted, stored and disinfected.