書店店頭で偶然見つけて購入。まだ入手は比較的容易。中野聡『東南アジア占領と日本人』(岩波書店、2012年)
カバー袖の惹句に「アジア・太平洋戦争で「南方占領」にかかわった多くの「日本人」の経験は日本に何をもたらしたのか――占領にともなう「他者」との出会いとそこで露わになった矛盾や限界は「大日本帝国」に変化を迫り、その解体を促進することにもなった」とある。この波及/逆流の関係の把握だいじ
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「本当に大抵の概念は適合する翻訳語が見つかるものなのか」
「いかなる概念をも翻訳できる。僕は自信をもってそういえる」
私は同じ質問を繰り返す。なぜなら、ずっとそういわれてきたからだ。
「琉球諸語では近代の、特に西洋の概念を表せない。例えば、デモクラシー、ヒューマンライツ、フリーダム‥」
彼が再び私をさえぎり大きな声でいう。
「すべての言語だ。少数民族の言語でもだ。もしその言語にその概念がないとしたら、外来語をそのまま使えばいいじゃないか。何の問題があるんだ。例えば、沖縄語にデモクラシーの対応語がないとしたら、デモクラシーとそのまま使えばいい。英語だって多くの言葉を他の言語からもらっている。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語、パルティア語。例えば、ジャングルという言葉はパルティア語から来たものだ」
私はにやっとした。
「たぶん、ヒンディ語からもね」
「もちろんそうだ。対応後がないのなら英語から直接とればいい。なんの躊躇もいらない」
(知念ウシ 「ウシがゆく」 沖縄タイムス社
第2章 植民地沖縄を考える2006 P95-98 より)
(続き)ヒンディ語に よって社会科学が書かれることはほとんど何の問題もない。僕はその輝かしい未来を確信している」 「それはすごい。沖縄では、琉球諸語はおよそ百三十年前の琉球処分以来発達を止め、近代の概念を 表現することは不可能だと信じる人が……」 といったところで、また彼がさえぎった。
「このような議論には絶対に賛成しない。あらゆる言語はいかなる概念であれ、翻訳が可能だ。よいのため 文法と格闘するのは、話し手、訳者の義務だ。 翻訳とは言語発達の過程であり、世界の文学や思想と出会う過程だ。マルクスは著作をすべて英語で書いたのではない。マックス•ウェーバーもドイツの社会学者だ。世界の思想は独、伊、仏などから英語に翻訳されている。つまり、偉大な知識の宝としての英語は翻訳のプロセスを通して他の言語から得られたものだ。すべての言語はその思想、文学、文化の世界を豊かにするために、翻訳の過程が必要だ。ヒンディ語はその中にいるし、沖縄語もその過程が必要だと思う」
「しかし新しい概念を導入するとき、言葉をヒンディ語から探せるのか。それとも英語をそのまま使うのか」
「大体の場合、該当する言葉を探す。全力を尽くして。それでも見つからない場合は英語を使う。しかしそれは滅多にないことだ」
(抜粋)琉球弧社会での共通語をどうするかはさておき、日常生活言語として、日本語に替わり各シマクトゥバの復活は可能ではないか、と私は時々思う。しかし、その際ぶつかるのは、「シマクトゥバでは近代的な概念を表現できないから、時代にそぐわず無理だ」というような声である。
ドゥベさんに聞きたかったのは、そのような考えをどう思うか、である。なぜなら彼は、まさに、インドにおいて、植民地時代以来現在のグローバリゼーション下でも支配言語たる英語を母語であるヒンディ語に置き換える作業に取り組んできた方だからだ。そこでドゥベさんに、「英語−ヒンディ語翻訳について聞きたいのだけれど‥」と私が切り出すと、すぐに強い口調で返された。
「そういうことは可能か、という質問?かつては、それによってレベルが下がると考えられていたが、現在では、状況は完全に変わっているんだ」
この反応は、逆に、このような考えが相当根強く、氏がそれといかにたたかい、実績を積んできたか、を示しているように感じた。ドゥベさんは続ける。
「社会科学のテキストをヒンディ語へ翻訳することは、原作よりよくなるという結果を生んでいる。原作者たちが僕に言う。ヒンディ語がパワフルな言語であることが証明された。(続く)
ガールクラッシュ沼に落ちた猫/うちなーんちゅ