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『少年の名はジルベール』だけを読んでいては、全く想像がつかなかったものが、この二冊だけでもたくさんあり、あのとき大泉に集っていた作家たちが一人ひとりそれを回想したなら、だれもが「同じ場」にいたようには見えないような気がすると思う。だからだれもに「語れ」というわけではなく、受け取るほうが、周囲への要求を突き付けてしまっていないかとか、一つの語りをだけ取り上げて「正史」として採用してしまっていないかを考える、ということとか。たくさんの人が登場するのなら、名が出ている人ひとりひとりに、おそらくはその人にしか見えなかった「同じ場面」と、その捉え方/葛藤がある。

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