小林多喜二と言われると絶対思い出してしまう
高校生の時に友達が家族で北海道旅行に行ったらしいんだけどそこんちのお父さんが学校の先生で、めちゃくちゃ寒い場所でいきなり車から降ろされて小林多喜二が受けた苛烈な拷問とその果ての死について聞かされたっていうエピソード
則宗がことのほか愛でたのは、その声だった。
しかし清光は滅多に声を立てなかった。元いた芸妓の家でも、則宗がかれの声を聞いたのはほんの一度か二度だ。
それでもその声は、則宗に強烈な印象を残した。
ほんの少し掠れた、幼いわりに低い声。「はい」という短い返事ですら、その音が揺らぐような物憂い響きを底に秘めている。
「この子は本当に貝みたいに口を開きやしないんですよ」と芸妓が言ったとおり、引き取ったばかりの清光は返事すら首を振るだけで声を発しようとはしなかった。
則宗はかれの声を聞きたいがためにあの手この手を尽くした。笑わせようと地口を使ったり、「はい」と「いいえ」では済まないような問いをいくつも投げかけたり、論語の素読をさせてみたり。
やがて清光は少しずつ声を出すことに慣れていった。素読の声が大きくなるにつれて、日々の暮らしの中での口数も増えた。
時に明るく笑うようにすらなった。
則宗はその声に宿る憂いを、この上もなく愛した。
元は気まぐれで拾った子供だった。
自前芸者のところで下働きをしていたのを、ちょっとしたいたずら心で引き取ったのだ。
当の芸妓からも「そんな子供をどうするんですか」と呆れられたが、則宗自身もどうしてそんなことをしたのだかわからなかった。
光源氏を気取りたかったわけではない。育てる楽しみならば揚げ屋でも味わえる。
それでも強いて手元へ置きたくなったのは、多分あの声のせいだ。
地歌でも仕込めばいい退屈しのぎになるだろうという言葉に、あの芸妓は柳眉を曇らせたものだった。あの子が歌うもんか、という言葉を飲み込んだらしい唇の形を、則宗は今もふとした拍子に思い出すことがある。
棒切れみたいに痩せた手足をした、それでも頬には幼い丸みのある幼い子に、則宗は清光という名を与えた。芸妓のところで単にキヨと呼ばれていたかれに光の一文字を添えたのは、この子の前途に光あれと祈ったからだ。
則宗は清光を己の隠宅に住まわせ、さまざまなことを手ずから教えた。
決して飲み込みが早いとは言えなかったが、字を書かせても唄を歌わせても、どこかに翳りを感じさせる不思議な子供だった。
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