若い愛人が葉書を寄越したのは、じめじめとした雨が鬱陶しく降る梅雨のある日のことだった。
紙の左肩で実に事務的にヤマユリが咲いている、両面に書かれた文字以上の心などひとつもこめられていなことがわかる一枚だ。
右肩あがりで線のまっすぐな、硬質なかれの性情をそのままうつしたかのうような文字が整然と並んでいる。
「近々時間を作って欲しい。こちらの用は五分ばかりで始末のつくことだから、どうにか都合をつけてほしい」
湿り気を帯びたせいかいくらかやわらかく感じられるその紙を、則宗は少し考えてから手帳に挟んだ。
時間を作るつもりはなかった。
愛人の用はわかっている。
則宗はこれまでにも何度かかれから同じ話を持ち出されていた。その度にどうにかなだめ、答えを先送りにしてきたのだ。
かれの望みを叶えてやってもいいのかも知れないとも思う。しかし、そう思ってあの小さな家を訪れても、あの顔を見るとたちまち決心が萎えてしまう。
則宗は、あの愛人を手放す覚悟ができそうもない自分を嗤った。
元は気まぐれで拾った子供だった。
自前芸者のところで下働きをしていたのを、ちょっとしたいたずら心で引き取ったのだ。
当の芸妓からも「そんな子供をどうするんですか」と呆れられたが、則宗自身もどうしてそんなことをしたのだかわからなかった。
光源氏を気取りたかったわけではない。育てる楽しみならば揚げ屋でも味わえる。
それでも強いて手元へ置きたくなったのは、多分あの声のせいだ。
地歌でも仕込めばいい退屈しのぎになるだろうという言葉に、あの芸妓は柳眉を曇らせたものだった。あの子が歌うもんか、という言葉を飲み込んだらしい唇の形を、則宗は今もふとした拍子に思い出すことがある。
棒切れみたいに痩せた手足をした、それでも頬には幼い丸みのある幼い子に、則宗は清光という名を与えた。芸妓のところで単にキヨと呼ばれていたかれに光の一文字を添えたのは、この子の前途に光あれと祈ったからだ。
則宗は清光を己の隠宅に住まわせ、さまざまなことを手ずから教えた。
決して飲み込みが早いとは言えなかったが、字を書かせても唄を歌わせても、どこかに翳りを感じさせる不思議な子供だった。
則宗がことのほか愛でたのは、その声だった。
しかし清光は滅多に声を立てなかった。元いた芸妓の家でも、則宗がかれの声を聞いたのはほんの一度か二度だ。
それでもその声は、則宗に強烈な印象を残した。
ほんの少し掠れた、幼いわりに低い声。「はい」という短い返事ですら、その音が揺らぐような物憂い響きを底に秘めている。
「この子は本当に貝みたいに口を開きやしないんですよ」と芸妓が言ったとおり、引き取ったばかりの清光は返事すら首を振るだけで声を発しようとはしなかった。
則宗はかれの声を聞きたいがためにあの手この手を尽くした。笑わせようと地口を使ったり、「はい」と「いいえ」では済まないような問いをいくつも投げかけたり、論語の素読をさせてみたり。
やがて清光は少しずつ声を出すことに慣れていった。素読の声が大きくなるにつれて、日々の暮らしの中での口数も増えた。
時に明るく笑うようにすらなった。
則宗はその声に宿る憂いを、この上もなく愛した。
則宗が清光をはじめて抱いたのは、かれを引き取ってから五年ほども経ってからだった。
まるきりそんなつもりがなかったとは、則宗も言うつもりはない。気まぐれで子供を引き取ったのだと言っても「これは手塩にかければ自分好みに育つ」という予感がなければそんな酔狂はしないのだ。それでもその夜の出来事は、則宗にとっては思いの外のことだった。
清光は思い詰めたような顔をして自室へ引き上げようとした則宗を引き留めた。
「今日の謡は上出来だったんでしょ」
とかれは掠れた声で囁いた。
「だったら、ご褒美をちょうだい」
うつむいたうなじまで染めた清光の意図がわからぬはずはなかった。則宗は鷹揚に笑い、そして清光の望みを聞き入れるという体でかれを抱いた。
一度抱いてしまえばあとは同じだと自分に言い聞かせ、則宗は清光のために小さな茶寮を探し出しそこへかれを移した。これまで隠宅へ住まわせていたのは、かれが特別だったからだ。庇護し世話をすべき者から情人へと変わったのであれば、それに相応しい処遇というものがある。
しばらくの間、則宗はその寮へ足繁く通った。愛らしい情人は頬を染め喜びを隠さずに則宗を迎え、かれのためだけに唄を謡い舞を差し、そして褥で甘く愛らしく囀った。
掠れた少し低い声が鋭く高く変わるのが愛しくてならなかった。
蜜月が終わりを告げたのは、清光を抱いてからちょうど一年が過ぎた夏の終わり頃だった。
いつもは出す先触を出さなかったのは、虫が知らせたからだろうか。
突然訪ねていったらどんな顔をするかと忍んで行った則宗は、三味線の音に気づいて庭の籬からそっと透見をした。果たして濡れ縁には、麻の単にゆったりと扱きを結んだだけのしどけない姿の清光がいた。手すさびのように撥で弦を弾き、曲にもならない音を小さく響かせている。
割れた裾から真っ白い脛がのぞき、その先には紅を乗せた爪が行儀良く並んでいる。あのつま先にこれから口付けるのだと思うと則宗は身内がかっと熱く火照るのを感じた。
清光、と声をかけようとしたその時だ。
部屋の中から男が出てきた。
身の回りの世話をさせるために置いた小者だ。力仕事もあるからと大柄なのを選んだのは則宗だったから、顔も見覚えていた。総髪の耳から上だけを結わえ、顔の半ばまで前髪で覆い隠した男だ。
男は小腰を屈めて清光に何ごとか告げた。振り仰いだ清光はそれを受けて小さく笑い、撥で弦を弾いて即興でひと声ふた声唄って返した。
——あの声を聴けるのは自分だけのはずなのに。
胸の中に嫉妬の心火が燃え上がるのがわかった。燎原の火のように妬心は則宗を内側から焼爛し、自制を失わせた。
その日を境に則宗は寮へ足を向けることをやめた。
はじめのひと月は清光からも音沙汰がなかった。それが過ぎると清光は則宗の身を案じる文を控え目に送って来るようになった。
何かあったのか。もしや身体を壊したのか、怪我でもしたのか。無事ならばそれを知らせてほしいと綴る便りは、能筆とは言えないが隅々まで慎重に運ばれた筆遣いからこちらを案ずる真心にあふれていた。則宗はそれを無視した。
やがて小者や出入りする人間から則宗の無事を知ったらしい清光は、半月に一度という控え目な音信をはじめた。則宗の健勝を祈り、日々の安穏を願い、そして自身の身辺に起きたことを書いて寄越す。則宗はそれらを受け取り目を通し、そしてやはりこれも無視した。
そんなことを続けて一年、清光からの信書は簡素な葉書に変わった。書いてあるのはたったひとつ。
『会いたい』
則宗はとうとう根負けした。清光にではない、自分自身の恋慕の情にだ。会いたいと願ってしまう心に則宗は勝てなかった。
「住むところも着るものも、何一つ不自由はないはずだ。この上何が欲しい?」
「則宗」
そうじゃない、とかぶりを振る清光の頬からは血の気が引いている。畳の上にそろえた指先は哀れなほど震えていた。
「無聊を慰めるものもここにはたっぷりあるだろう。──僕が何も知らないとでも思ったか?」
則宗の視線の先を追った清光が短い悲鳴を上げた。
「ちがう」
視線の先、庭にいるのはくだんの小者だ。座敷で何が起こっているのか気づいてもいないのだろう、鋏を手に庭木の枝を整えている。
「あの人はそんなんじゃ」
則宗はその言葉を手を振ってさえぎった。
「かまわんさ、多少の遊びに目くじらを立てるほど僕も野暮じゃあない」
心の中のどこにもない言葉が恐るべきなめらかさで口をついて出る。
「むしろ鬼の居ぬ間に少しくらい羽目を外してくれた方が僕としてもありがたいくらいだ。お互い様ならお前さんだって僕の火遊びに目をつぶってくれるだろう?」
「──そんな」
石榴色の双眸が潤み歪む。清光は言葉を紡ぐこともできずに薄い唇をわななかせた。
「好きにするといい。だがここを出ることは許さない。それだけは、許さない」
畳につっぷして肩を震わせ泣く清光を見下ろして傲然と言い放つ。庭に面した掃き出し窓の硝子に映る自分の顔が笑みに歪んでいるのを、則宗は見た。
自分が、ふたりの間にあったつながりを断ち切ってしまったことを則宗は理解していた。あの日自分は清光をもはや信頼などしていないと宣言し、同時に己が清光を裏切ることを予告したのだ。
則宗は、寮へ行く、清光に会う理由をみずから手放したのだった。
それから二年、則宗は清光からの「会いたい」という手紙を無視し続けている。
今更どの面を下げてかれに会いに行けばいいのかわからない。さりとてすべてを諦めてかれを手放すこともできなかった。