清光は人魚だ。
 今は南の海に住んでいる。
 生まれつき人魚だったのではなく、諸々あって人間から人魚にジョブチェンジして海で暮らすようになった。人魚になってからまだ半年足らずで、よって清光は人魚としてはまだよちよち歩き(泳ぎ?)すらままならぬ赤ちゃんのようなものだ。
 なので、清光には人魚のことがわからない。
 よって、自分を人魚に変えた張本魚が近頃やたらとそわそわしている理由にも、まったく心当たりがない。
 則宗のそわそわは、だいたい今満月の月が半分ほどだった頃からはじまった。
 則宗は清光に甘い。獲物の捕らえ方を教えてくれたわりに、毎日食事は手ずから用意してくれる。清光が好む美しい真珠や珊瑚や身を飾る海藻をまめまめしく運んでくる。美しい景色を見ようと手を引いて泳ぎ、眠るときは潮に流されぬようにと同じ岩陰で抱いてもくれる。

はじめこそ戸惑った清光だったが、やがてそんな献身にも少しずつ慣れた。則宗は清光の感謝がなくとも献身それ自体が楽しくて嬉しくてたまらないようだった。
 お返しに清光も、則宗にささやかな贈り物をすることがある。満月の日に海の上へ誘ってふたりきりで過ごしてみるとか、拙いながらも歌を歌ったりだとか、見つけた綺麗な貝殻を贈ったこともある。
 ふたりは少しずつ、地上にいた頃とは違う関係を築いている。
 だが、そんな穏やかさが、近頃の則宗の落ち着きのなさによって変わりつつあった。

「坊主。その、アレだ。最近はどうだ。調子は」
 落ち着きなく尾鰭を揺らしながら尋ねる則宗に、清光は根気強く答える。
「おかげさまですこぶるいいよ。こないだあんたがくれたパックのおかげでお肌もぴかぴかだしね」
「そ、そうか! うはは! そいつは何よりだ!」
 なお、この会話はすでに本日三度目である。
 いったい何があったのか、あるいはあるのかと一度ならず聞いたことがある。しかし則宗は何故か顔を赤くして「大丈夫だ!」と言うだけだった。ちっとも大丈夫そうじゃないから聞いている清光としては釈然としないが、海の中で他に頼れる者などいない身にできることはない。

 清光はおとなしく「そっか」と返事をすると、
「ちょっと俺出かけてくる」
 と言い置いて尾鰭を大きく打ち振り潮の流れに乗った。
 人だった頃は考え事などする暇はなかった。日々を息も絶え絶えに過ごし、次の瞬間にすべきことだけで頭がいっぱいだった。例外はあの、浴槽にいた美しい人魚——則宗のことだ——の傍らで過ごした時間だけだ。あの短い時間だけ、清光は美しいものを見、美しいものを聞く人間らしい存在でいられた。
 だから清光は則宗の手を取ったのだ。
 則宗は清光にとって、海の中で唯一頼れる存在であるという以上に、あの苦境にひとすじの光をくれた相手であり、その恩にどうにかして報いたいと望む相手でもあった。
「そりゃ、俺は人魚としては頼りないけどさ」
 潮流に身を委ねて水面の光を見上げながら思わず呟きが泡となる。
「それでもちょっとくらい打ち明けてくれたっていーじゃん」
 ふたたび鰭を振り、清光は静かに海の底へと身を沈めた。光が薄く差し込むばかりの砂の上に寝そべり、最初に則宗から贈られた真珠の耳飾りを指で揺らす。

 真珠なんて生まれてはじめてで驚いてばかりの清光に、則宗は少し照れながら、とても優しく耳飾りをつけてくれた。清光はその時、自分の中にある則宗へのまだ淡い、けれど確かに甘い感情に気づいたのだった。
「はぁ……ほんと何なんだろ、あれって」
 その声が大きく反響した。
 つぶやいただけの自分の声が珊瑚の影から繰り返し響く。
 清光は驚いて身を起こしあたりを見まわした。海の中であんな風に声が響くのは、岩に穿たれた穴の中くらいだ。珊瑚の枝と海草が揺れるだけのこんな場所でなぜ、と眉根を寄せる。
「珍しいな、人魚じゃないか」
 声は砂の下から聞こえた。ぎょっとして飛びすさった清光の目の前で、白い砂が蠢いてその下からゆっくりと人の上半身が姿をあらわした。どう見ても人間だ——が、海の底にいるからにはこの抹茶のような色をした髪を眸を持つ男もまた、人ならざる存在なのだろう。
 現に、するすると伸び上がったその男の臍から下は、白地と橙の縞柄に並ぶ鱗に覆われている。
 敵意はなさそうだがなんだか得体が知れない。

清光は警戒を隠さず静かに身を引いて距離を取った。
「あんたも人魚に見えるけど」
「人魚が人魚を珍しがったっていいだろう」
 理屈である。実際人魚は珍しい生き物だ。現に清光も則宗以外の人魚を知らない。清光はおとなしく頷き、尾鰭をほんの少し揺らした。
「そーね、俺もよその人魚に会ったのってこれがはじめてだし」
 相手は頷いてからまたするすると砂の中へ潜り込んでいき、胸あたりまで埋まって砂の上に肘をついた。
「それにしても、こんな季節にねぐらから離れた場所にひとりでいるなんて穏やかじゃないな。則宗と喧嘩でもしたのか」
 何気ない調子で告げられた言葉に清光は水の中で飛び上がった。
「則宗のこと知ってるの⁉︎」
 驚く清光に、抹茶色の人魚は片方だけあらわになっている瞳をしばたたかせた。
「知っている。お隣さんだからな」
 ここってお隣なんだ、と清光は思った。遠くまで泳いで来たつもりだったのに、まだ則宗の行動範囲のほんのわずか外でしかないらしい。人魚の世界にも慣れてきたつもりだったが、かれらの生活のスケールにはまだまだ馴染めていないようだ。

「まあこれからよろしく頼む……と言いたいところだが、今は時期が悪い。早いところ則宗のところへ帰った方がいい」
 妙な言い草に清光は眉をひそめた。
「今って何かあるの?」
 もしや則宗のあのおかしな態度もその時期とやらが悪いせいなのだろうか。
 身を乗り出した清光に、抹茶色の人魚はするすると肩まで砂の中に身を沈めながら頷いた。
「盛り時だ」
「さか……?」
 耳慣れない言葉を思わず聞き返す。
「人魚はこの時期に盛りがつく」
 繰り返されてようやくその表現が何を意味するのかはわかった。今、人魚は発情期なのだ。
「あんたもそうなの?」
 だから早く帰れと言われたのかと納得しかけた清光に、しかし相手は肩をすくめて見せた。
「俺は違う。年を取っているからな、もう盛りはつかない」
「じゃあ別に大丈夫なんじゃないの?」
「俺とお前が平気でも則宗はそうじゃない」
「——」
 清光は言葉を失った。
 このところの則宗のあの態度は、もしかして自分に対して発情しているせいなのではないかと思い至ったのである。

「則宗は俺に……」
 発情してるの、という言葉はさすがに口には出せなかった。あまりにも生々しかったからでもあるし、近頃の則宗の様子からそれが今目の前にいる人魚の虚言であるとも思えなかったからでもあった。
 うろうろと清光の周りを泳ぎ回ったりじっと熱っぽく見つめたり、そのくせ清光がそっと手を伸ばすと逃げるように身を引いたり、そういった行動の全てに説明がつくではないか。
「人魚は情が強《こわ》いんだ。あいつは特に、今まで一度も番を持たなかったからな。お前への思い入れはよほどだろう」
「今まで一度もって……人魚って季節ごとに相手を変えたりするわけ?」
 ひっかかりを覚えて尋ねる。返ってきたのは清光にはあまり嬉しくない答えだった。
「そういう人魚もいる」
 突然清光は不安になった。
 今の今まで、則宗からの好意や愛情がこの先翳ることなど考えもしなかった。だって自分は則宗に手ずから人魚にされて海まで連れて来られるほど愛されている——そのはずだ。
 だがもしそれが、人よりはるかに永い命を持つ人魚の、ほんの気まぐれでしかなかったのだとしたら?

 二十数年を人間として生きてきた清光にとって、海の中で突然放り出されるというのは死の宣告にも等しい。勝手もしきたりも生きていく術も、何ひとつわからないのだ。
 だが、清光の胸を満たしていたのは恐怖よりも怒りだった。
「わかった。ありがと、教えてくれて」
 短く切りつけるように礼を告げるや清光は尾鰭を強く打ち振って泳ぎ出そうとした。
「待て」
 のんびりした声にもどかしく振り返ると、顔の半分ほどまで砂に埋まっていたはずの人魚はいつの間にかふたたび縞模様の鱗を見せていた。手には小さな瓶を持っている。
「これをやろう。俺が若い頃に流行ったやつだ。お前の役に立つはずだ」
「何、これ」
 受け取った瓶を光に透かしてみると、粘度の高い液体が入っているらしいのが見えた。なるほどこれなら海の中でも海水に紛れてしまわずにすむ。感心する清光に、人魚はそっけないほど簡単にその液体の効能を説明した。
「飲むと交尾がしたくなる薬だ」
「こっ……⁉︎」
「腹が決まれば自分で飲んでもいいし則宗に飲ませてもいい。そこは好きにしろ」

フォロー

 どっちが飲むのかはかなり重要なポイントなのではなかろうかと思いはしたものの突っ込むことはできなかった。なんだか恐ろしいものを手に入れたような心地で瓶を抱えた清光は、今度こそ砂の中へ戻っていこうとする人魚に慌てて礼を言った。
「ありがと! あの、俺は加州清光。あんたは?」
「鶯丸だ。気が向いたらまた遊びに来るといい」
 最後の「い」を言うより早く、抹茶色の人魚——鶯丸の姿は砂の中に完全に消えた。
 しんと静かになった海底を見回してから、清光は手の中の瓶を握りしめて尾鰭を振った。
 戻ろう。戻って、あのくそじじいを問い詰めてやらなければ。

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