寝る前に SNSをぼんやり見ていた則宗、なんとなく再生したリールには「安眠のお供」とかいうタグがついていた。
心地よい少しハスキーな低い声で「近所の桜が咲いた」とか「散歩のときにいつも見かける犬のお座りスタイルが独特でかわいい」とか、「この前買ったリップがあんまり似合わない気がしてがっかりしてたんだけど、別のと重ねたらすごくいい色になってうれしい」とか、日常の本当になんでもないようなことをとりとめもなく話すだけのもの
数分しゃべって「じゃ、俺も寝るね。おやすみ」という一言でリールは終わる
その夜はびっくりするくらいぐっすり眠れた
日々の「このまま寝るのはもったいない」「今日は何もしてない気がする」みたいな焦燥を、あの「俺も寝るね」がろうそくの火みたいにふっと吹き消してくれた気がした

映像はたいてい手だけが映されていて、しゃべりながら爪の手入れをしているときもあれば小さなぬいぐるみを手の中でこねている日もあり、「今爪乾かしてんの」と言いながら指をひらひらさせている日もあった

更新はせいぜい三日に一度、フォロワーも別段多くないし投稿につくコメントも「おやすみ」とか「よく眠れました!」くらい
でも則宗にとってそのアカウントは、一日をつつなく過ごした後にそっと開いてみる宝箱のような存在になった

コメントを投稿する勇気はないからいつもいいねボタンを押すだけだった則宗は、ある日ふと思い立って「おやすみ」というコメントをしてみた
その日のリールはいつもよりちょっとコメントが多くて、これなら自分のコメントもいい具合に埋もれるかと思ったからだ
すぐにそのコメントにハートがついた
同時に則宗の心にもぽっと赤い光がともった

その日から則宗は写真をまめに投稿するようになった
もちろん、kiyoという安眠アカウントの主がわざわざコメントした相手のホームを覗いているかどうかなんてわからない
ホームを覗きに来たkiyoが、自分の撮った写真を見て少しでも心穏やかになってくれたらいいという一心で、半ば恋文を書くような気持ちで則宗は日々を写し取ってはSNSという大きな海に流した

そんなある日、則宗の投稿にコメントがついた
「ここ、俺も行ってみたかったお店です。美味しかったですか?」
仕事の同僚と立ち寄った蕎麦屋の写真だった
店名や住所は書いていなかったが、古風な外観が気に入って看板が入るように撮影したから知っている者が見ればどこなのかは簡単にわかる
美味かったと簡単に返事をしようとした手が止まった
kiyoだ
頭が真っ白になった
kiyoが僕の投稿を見た?しかもコメントした?おまけに「行ってみたかった」ということは生活圏が近いということなのか?少なくとも新幹線や飛行機で移動しなければならないような離れた土地に住んでいるわけではないということではないか?
則宗は震える指で端末の画面を叩いた
推敲するつもりだったのに緊張しすぎて指がすべった
「天ぷら最高」
という暗号みたいな返信に、すぐさまハートマークがついた

いやちがう天ぷらを礼賛したかったわけじゃない、普段の投稿にキャプションを入れていないのは単に文章を考えるのが面倒だからだが、今回はちゃんと文章を練るつもりだった
「天ぷら蕎麦が本当に美味しかったです、最後の蕎麦湯まで目にも舌にも贅沢な昼食でした」
みたいな落ち着いた感じの返事をしたかったのに予測変換と誤タップのせいでなんかパリピみたいになっちゃったじゃないか
床を転げ回りたい気分だった則宗は、しかし握りしめていた端末がふたたび震えたことに気づいて動きを止めた
『kiyoさんがあなたをフォローしました』
則宗は床の上で卒倒した

清光がおやすみ動画を投稿するようになったのは、眠る前の無為をどうにかしたいからだった
SNSで流れてくる動画をぼんやり見たりコスメの新情報を眺めたりするのは、確かに無心になれて悪くない時間だったけど同時に焦りも感じていた

最初に撮ったのは本当に短い動画だった
本当はいろんなことを言いたかった
今日仕事であったいやなこと、理不尽さに腹が立ったこと、やってしまったつまらないミス
吐き出すことはそれはそれですっきりしたけど、今まで撮ってはアップしてきた綺麗な写真と一緒にそんな動画が並ぶのはちょっといやかもな、と思った

清光はもう一度動画を撮った
今日あった嬉しいこと、ささやかでもいいから気分が明るくなったものについて話してみたら心の中がちょっとあたたかくなった

再生数は上がらなかったしコメントもつかなかったけど、自分で見返してみるともう一人の自分に褒めてもらえてるような気がしてなんだか幸せな気持ちになれた

続けるうちに少しずつコメントやいいねがつくようになった
清光はその人たちを自分と同じ気持ちを抱えてる人だと感じた

いいねをくれた人のアカウントを覗くのが好きになった

いろんな人がいた
イラストを描いてる人、食べたものを撮ってる人、買ったものを撮ってる人、街中で見かけた花の名前を調べてる人
あんまりアカウントを更新していない人もいた
そんな人がどうやって俺のアカウントに辿り着いてフォローをしてくれたんだろうなと想像を巡らすのも楽しかった

ある日、「おやすみなさい」とコメントをくれた人のホームを覗きに行った清光はびっくりした
ちょっと前に見た時は数枚の写真が投稿されていただけで、いかにも義理で作ったという感じだったアカウントがたくさんの景色で溢れていた
写真はあんまり上手くはなかったしキャプションもない
ボケているのも多いしピントが被写体じゃなくて写り込んだ手になってるのも多い
でも、「いいな」と思った瞬間が見えるような気がした

中に一枚、知った店の外観があった
前を通りかかったことが何度かあったけど、老舗っぽいしいつも人が並んでいるから入れずにいる店だ
思わずコメントをつけたら、「天ぷら最高」という、いかにもこのアカウントの写真を撮った人が書きそうな返事がすぐに来た
清光は笑ってその返信にいいねをつけた

ある休日、清光は前から行ってみたかった紅茶の専門店に出かけた
スコーンと一緒に紅茶を楽しめる小さな店だ
紅茶にもスコーンにも特別な思い入れはなかったけど、店の内装がちょっとゴシックな雰囲気だったので一度行ってみたいと思っていたところだった
狭い店内は二人がけの小さなテーブルがいくつかとカウンターだけで、流れているピアノ曲とあいまって静謐な空気に満たされていた

よく晴れた日だからだろう、窓際のカウンターに案内された清光は隣に座っている男が運ばれてきたスコーンと紅茶をスマホで撮影しているのを横目に見ながら注文を済ませた
いかにも不慣れというか、「映える」写真を撮るテクニックを知らなそうな様子をちょっと微笑ましく思いながら清光もSNSのアプリを開いた
心臓が止まるかと思った
あの天ぷらさんがアップしている写真が、どう見ても同じ店のものだったからだ
いつ来たんだろう、天気がいいからこの数日のことだろうか
映り込んでいる景色から、かれが清光と同じ窓際のカウンターに座ったことは確かだった
まさか
いやでも
心臓が早鐘を打っている
もしかして
清光は緊張で指を震わせながら、運ばれてきたスコーンと紅茶のセットの写真を撮ってすぐさまSNSに投稿した

「ずっと来たかったお店
スコーンすごく美味しそう!食べてからにしようかと思ったけどできたてスコーンの湯気を残しておきたくて」
という短いキャプションをつけたのは、見る人にリアルタイムだと気づいてもらえる可能性を上げたかったからだ

ほどなくその投稿にいいねの赤いハートがついた
天ぷらさんだ

隣に座った男は無反応だった
やっぱり違ったのかな、と思った瞬間バターナイフが皿にがちゃんとぶつかる音が隣からした
顔を上げると目が合う

男は手にしたスマホと清光の前に置かれたスコーンとティーポットを見比べてから何か言おうと口を開き、また閉じてごくんと唾を飲み、それからスマホの画面を指で叩き始めた

清光の投稿にコメントがつく

「もしかして、今」

相変わらず短い

清光は小さく笑ってから、戦々恐々としか言いようのない顔で自分を見つめる隣の席の男にこくりと頷いて見せた

「天ぷら最高、の人だよね?」
「は、いや、そ、そ、そうだす」
「あは、そんな緊張しないでよ。えーと、はじめましてでいいんだよね、kiyoです」

男は頷いてから口ごもった
自分が名乗るところだが名乗るべき名前がないのに気づいたのだろう
彼のアカウント名は「aaa」だった

清光はかれの葛藤を察して笑みをこぼし、
「清光です」
と名乗り直した
あからさまにほっとした顔になった相手は
「則宗だ」
と短く言った
その受け答えがあまりにも「天ぷら最高」だったので清光は今度は声を立てて笑ってしまった

声をかけたのは単なる興味本位で、清光はそれ以上踏み込むつもりはなかった
確かに天ぷらさんがどんな人なのかは知りたかったが、それはたとえば覆面作家の顔が気になるのと同じ種類の好奇心でしかなく、個人的な関係を持ちたいという思いは一切なかった
なかったのだが、気がつくと清光は自分からかれに連絡先を尋ね、住まいが意外にも近いということまで聞き出してしまっていた

帰宅後清光は可愛い黒猫のスタンプと丸々としたうさぎのスタンプがひとつずつ並んだSNSの画面を見返した
「よろしくね」という文字が跳ねる清光のスタンプに則宗が返したのは、「すまんな」という文字が入ったスタンプだった
謎チョイスに清光は笑い、それからなんだか切なく胸が疼くのを感じて戸惑った

なんだろう、この気持ち

則宗は放心して床に転がっていた
ベッドに転がればよかったのかもしれないが今は床の冷たさがありがたかった

知り合ってしまった、kiyoこと清光と
まさか実在していたとは、というのが正直な気持ちだった
そりゃまあ確かにかれの動画に写っていた指はとても細くて美しかったし、声はちょっと物憂げにも響く甘い低さだったし、かれが紡ぐ言葉はどれもとても優しかった
でも則宗はそれらをなんとなく、誰かが作り上げた美しい飴細工みたいなものだと思っていた
そんな愛らしい人はどこにもいなくて、ただ日々を過ごす合間に綺麗な夢を見せてくれる人がいるだけだと

でも違った
清光は美しい黒髪で、爪をあの動画と同じ赤に染めていて、あの動画と同じ静かなトーンで喋る生身の青年だった

そんなかれが自分をどう思ったのか、どうして連絡先の交換を申し出てくれたのか、則宗にはまるで想像ができなかった

ひとつだけわかったのは、自分が、あの動画の青年だからというからではなく清光に恋をしてしまったらしい、ということだった

恋はおそろしい
則宗はその夜のうちにkiyoの投稿した動画と写真をいっぺんに全部見直した
見直して、なんとかして今日出会ったかれとこの動画の間にある断絶を見つけ出そうとした
試みは無駄に終わった
則宗は清光を、kiyoをもっと好きになってしまった自分がいることを認めるしかなかった

ひとつ救いがあるとすればそれは、則宗から積極的に関わらないかぎり清光との縁はこれで終わるだろうという順当な見通しだった
好きだとかなんとか以前に、SNS以外での接点を作らなければそれでいい
これまでどおり、自分はSNSの上にいるkiyoというアカウントのいちファンでいればそれでいいのだ

それでも変化は起きた
だって自分はもう、あのリールの画面の外にある顔を知っている
どんな顔で「今日道を曲がったら猫にぶつかりそうになっちゃって、猫もびっくりしてたけど俺もびっくりしちゃったよ、猫と出会い頭なんてある?」って嬉しそうに話してるのかをありありと思い描くことができてしまう
いつものように「おやすみ」というコメントを入れるだけなのに、まるでかれの枕元に不躾に押しかけて話しているような気分になってしまう
なのにkiyoは、清光は則宗のコメントにいいねのハートをつけるだけではなく、個人的に教えてもらった方のSNSで「おやすみなさい」と可愛いスタンプを送って来てくれちゃうのだ

やめてほしい
勘違いをしてしまう
でもやめないでほしい
このまま勘違いしていたいし、できればこれが勘違いでなければいいのにと願ってしまうのを止められない

安眠動画は今や則宗にとって、ドキドキちょっとえっち動画になってしまっていた
そしてそんな目で見ていることが後ろめたくて余計に興奮してしまっている自分がいたのだった

関々としながら、でも眠る前の清光のリールをやめることなんてできるわけもなく、わだかまりを抱えて日々を過ごしていた則宗はある日、仕事帰りにカフェに立ち寄った
ちょっとした気分転換をしたいのがひとつ、もうひとつはつい最近清光がそこへ行ったと写真を投稿していたからだ
清光とまたばったり会えるなんていう僥は期待していなかった
ただ、同じ席に座ってかれが見た景色を眺めてみたいと思った
ガード下にあるこぢんまりとしたカフェは、写真の印象とは違ってずいぶんにぎやかだった
考えてみれば当然だ、頭の上をしょっちゅう電車が通るのだから、店内に流れる音楽もそれに負けじと話す客の声も自然大きくなる
ひとりで尋ねた宗は窓際の二人掛けの小さなテーブル席に通された

頭の上を列車が通り過ぎる音がひとしきり響く
則宗が生まれた土地にはこんな長い編成の車両はなかったな、などと考えながらメニューを開く
せっかくだから清光と同じものを食べようと決め、さて店員を呼ぼうと顔を上げたところで則宗は動きを止めた

今しも入り口から清光が入ってくるところだった

声をかけようかどうしようか、迷う則宗の目に次に飛び込んできたのは、清光の後から店に入ってきた長身の男の姿だった
清光は則宗の存在になど気づきもせず、店員に二人づれであることを伝えると連れの男を見上げながら楽しげにテーブル席に向かう
咄嗟にメニューで顔を隠した則宗に背を向けるかっこうで清光は椅子に腰を下ろした
会話がすべて聞こえるほどではないが、声の調子くらいはわかる絶妙の距離だ
則宗はふたりの話す様子から、かれらが相当に親しいことを読み取った

もしかしてもしかしなくても、あの髪の長い男は清光の彼ピとかなんだろうか
確かに背はすごく高いし凛々しい顔立ちをしている
長い髪がとてもよく似合っているし、その髪を清光が手に取って褒める気持ちもわかる

則宗の心は重石を詰められたようにずっしりと沈んだ
注文を取りに来た店員がものすごくおずおずと声をかけてくれるくらい落ち込んだ
運ばれてきたワッフルサンドもコーヒーもほとんど味がしなかった

フォロー

則宗は顔を伏せたまま砂を噛むような食事を終えると清光のいるテーブルを避けて店を出ることに決めた
清光が立てる楽しそうな笑い声と、時々「もう、からかうなよばか」という照れたような甘い声が聞こえるこの場所は間違いなくこの世で一番地獄に近い場所だと思った

立ち上がり、テーブルの間をすり抜けて出口近くのレジに向かおうとしたそのとき、真横のテーブルから短い悲鳴が上がった
どうやら客がグラスを倒して飲み物をこぼしてしまったらしい
「お客様、お怪我はありませんか」という気づかわしげな声が則宗にまでかかる
近くにいただけで怪我もしていないし服も濡れていないと答えた則宗を、
「則宗さん?」
と甘い声が呼び止めた
この距離では無視するのもおかしい
則宗はゆっくり振り返り、腰を浮かせている清光にさも意外そうに眉をあげてみせた
「おや、奇遇だなあ。僕はこれから帰るところだよ」
「そうなの?俺ももう出るところなんだ、よかったら一緒に」
嬉しげな清光の向こう側からは、連れの長男が値踏みするような視線を投げかけてくる
冗談じゃない、間男になるのはごめんだと手を振る則宗から視線を外すと清光はあわただしく荷物をまとめて立ち上がった
「ごめん俺先に行く。ここは払っとくから。ほんと今日助かった、安定だと話にならなくてさ」

長髪の男は則宗に向けていた鋭いまなざしを外すと快活に笑って手を振った
「いいってことよ。ほらさっさと行かねぇとおいてかれちまうぜ」
じりじり踵を後ろへずらしていっていた則宗を見とがめてそんなことまで言う
清光は泡を食って振り返った
「え、まってまって則宗さん、俺も行くから」「いや、僕は」
「駅まででいいから」
予想外に食い下がられて面食らう
ここまで言われて固辞するとかえっておかしいと、則宗はあきらめて頷いた
何より、則宗だって清光と一緒に歩きたかったし話したかったのだ

本当は店に入った瞬間から則宗の存在に気づいていた
よりによってなんで今日ここに、と思ったがいい機会だとも思った清光は、なんとかして声をかける隙をうかがいながらテーブルをはさんだ向かいに座る和泉守にアプリでメッセージを送った
「いま俺のうしろにいる人」
和泉守を呼び出したのは他でもない、どうやら自分は片思いをしている気がするがどうしたものかという相談に乗ってもらうためだった

磊落でこだわりのないように見えるかれは、あれで詩歌や折々の花を楽しむ繊細なところがある
色恋には疎いと自分で言っているが、人の心の機微にはさといのだ
和泉守は眉をほんのわずか上げてさりげない視線を送っただけで、それ以上則宗を眺めまわしたりはしなかったが、
「悪かねえな」
と短く頷いた。
それだけて清光はほっとした

不安なとき、一番信頼できないのは自分自身だ
その自分がいいと思うものを、近しい相手から肯定してもらえたことが今日一番の収穫だったかもしれない
清光は自分の気持ちに少しだけ自信が持てた気がした

話は実に他愛なかった
和泉守は「結局どうしたいんだ」とか「こうするのがいい」のようなことは一切口にせず、ひたすら清光の話を聞いた
ときどき「ずいぶん入れあげてんなぁ」と感嘆とも揶揄ともとれる合いの手を入れてきたが「からかうなよ」と言うと「いやそういうんじゃねえよ」と焦って否定したので、本当に感心していたらしい
話しながら清光は自分の心が少しずつ穏やかになっていくのを感じた
ささやかな交流からはじまった則宗との関係を、清光は今、大切にしたいと感じている
自分の思いはどうやら恋のようだと見当がついたが、急いで則宗との関係を変えるつもりはない

これらに納得できただけで大きな前進だった
何しろ今まで、自分の気持ちがなんなのか、自分はどうしたいのかがさっぱりわからない上に、自分の気持ちひとつにすら確信が持てずにいたのだ
こういうとき、古い相棒の安定ではだめだ
発破をかけてほしいときには最適だが、恋愛についてくよくよと思い悩んでいるときに相談すると「なんでもいいからとりあえずそいつ締め上げてセックスすれば?」とか言い出すのである
ちなみに堀川は「僕が何とかしてみましょうか」と言って本当に何とかしてしまうのでいざという時にしか頼れない

ゆっくり行こう、と清光は決めた。
焦って関係を進めようとすると、きっと自分の気持ちまで置いてはぼりにされてしまう。
清光は自分の中に生まれたこの淡い恋心を大切にしたかった。
たとえ結果が、今ぼんやりと望んでいるのとは違うものになったとしても後悔せずにすむように。

呼び止められた則宗は、あからさまに迷惑がるようなことはなかったが態度には戸惑いがありありとあらわれていた。
たまたま出先で会っただけの顔見知りに呼び止められて困感しているように見えた則宗を、それでも強いて引き留めたのはそこが清光の好きな店だったからだ。

則宗とはじめて顔を合わせたときもそうだった。
かれは、清光が SNSに写真を投稿した店にいた。そしてそこで清光を見つけてくれた。
程度はどうであれ清光への好意に似た何かが、店を選ぶかれの背を押しているはずだと思った。

店の外で、則宗は困ったような顔をしながらも清光が鞄からストールを引っ張り出して首に巻くのを待ってくれた。
ここから一番近いのは地下鉄の駅だが、足を伸ばせば複数の路線が乗り入れるJRの駅もある。どちらへ行くのだろうかと清光は考えながら則宗を見やった。
「則宗さんはどっち?俺はJRなんだけど」
「僕は歩きだ」
予想外の返答だった。それだと駅まで一緒にという口実には何の意味もなかったことになる。失望の色を見てとったのか、則宗はすぐにとりなすように笑った。
「天気もいいから駅まで送りがてら歩こう」
「うん!」
思い切りはずんだ声が出てしまい、清光は内心焦った。
これじゃ気持ちがバレバレじゃないだろうか。
だが、則宗はただ笑って頷いてくれた。
「歩きってことは、則宗さんちってこの近くなの?」
「ああ」
すごいな、と清光は思った。超高級住宅街!とかではないが、このあたりの家賃相場はかなり高いはずだ。
清光が住んでいるところだって若者に人気の街だが、ここはちょっとランクが違う。
何をしてる人なんだろうな。でも詮索してるって思われるのもやだしな。
黙ったまま歩く清光に、則宗が何気ない調子で言った。
「あのおやすみ動画は、どうして始めたんだい」

思いもよらない問いかけに清光の足は止まった。
それは、たぶん則宗が考えているよりずっとずっと清光の中に踏み込む質問だ。
答えなくてもいい。正直に言わなくてもいいと思いながら、それでも「この人には知ってもらいたい」という思いに背を押されて清光は則宗を見た。則宗も、立ち止まって清光を見つめていた。

「……一人暮らしでさ。仕事だけして家に帰ってご飯食べて寝てってやってると、誰ともプライベートな話をしないままの日があるなって、急に気づいちゃって」

夕刻の風がストールの端を揺らす。清光はそれを視界の端にとらえながら笑ってみた。当時の苦しさが胸の中によみがえっていたせいで、うまく笑えているかはわからない。

「俺はここにいて、ここで生きてて、俺の人生にはほんとは楽しいことも嬉しいこともちゃんとあるんだって思いたかったんだ」

眠る前に、必死で探した。今日だって何かあったはずだ。何か心を揺らすこと。何か心をあたたかくしてくれること。
小さなそれを夢中で拾い集めてカメラの前で広げて見せた。祈りのような行為だったと思う。

「それがきっかけ。はじめてみたら楽しくなっちゃって、もう今じゃあれが趣味みたいになってるけど」

軽く笑った声は少し上ずったかもしれない。
楽しいこと、増しいことをなんてことない調子で話すのがkiyoというアカウントの良さだと清光も自覚している。舞台裏にそんな事情があることなんて、別に聞きたくなかったかもしれない。
そう思いながら顔を上げた清光はぽかんとロを開けて則を見た。
鼻の頭が赤い。目も少しうるんでいる。
もしかしてこの人泣いてるんだるうか。今の俺の話で?

「僕は」
と則宗は少し鼻声で言った。
「僕もそうだった。僕には何もないと思っていたときに、あのアカウントを見つけたんだ。暗い夜の海でやっと見つけた明かりみたいに、お前さんは僕を岸辺へ導いてくれた」
それはちょっと大げさなんじゃない、なんて軽口は浮かびもしなかった。

清光は嬉しかった。手探りではじめた自分のためのささやかな営みが、誰かの心を揺らし、ほんの少しだけ明るくできたのだ。
そしてそのことを、他でもない則宗が伝えてくれた。
淡い恋が、これだけで報われたような気がした。

「あの、俺さ」
「清光、僕は」
声が重なった。とっさに言葉を飲み込もうとして、でも今言わないでいつ言うんだという気がした。
まだきっと早い。自分の心だって追いついていないと思う。でも、今だと思った。

「俺、則宗さんが好き」

「僕はお前さんが好きだ」

えっ、という驚きの声まで重なる。
ふたりはお互いを、豆鉄砲をくらった鳩のような顔で見つめた。
「あの、俺が言う好きっていうのは友達とかじゃないほうの好きで」
うろたえる清光を見て則宗は頬をゆるませた。
繊細な顔とは不釣り合いにも思える節ばった手が伸びてくる。頬に触れる直前に、則宗は首を傾げた
「……触れてもいいかい」
ひと呼吸するだけの時間、則宗は持ってくれた。指先がそっと頬をなぞったのは、清光が頷いて顔を上げてからだった。
「僕の好きは、このまま抱きしめたいって意味の好きだ」

まだ早い、なんて思っていた自分を清光はあっさり蹴飛ばした。
だって好きな人が自分を同じように好きだと言ってくれているのだ。迷う理由がどこにあると言うのだろう。
清光はそのまま則宗に抱きつき、「俺も」と答えた。

胸の中に清光が飛び込んできてくれたその日から突然毎日が一変したわけではない。
好きな相手ができたからと言って何もかもが美しく見えるようになったりはしない。仕事は相変わらずだし、生活の中にひとりの人間が入り込んだだけですべてが薔薇色に変わったりはしない
だが、ささやかな変化は確かに則宗の心を明るくあたたかくした。
週末の約束。帰り道の短い通話。わかちあった時間の記憶。
今夜も則宗は眠る前に、kiyoのリールを眺める。
『今日はね、晩御飯のバターチキンカレーがすごく美味しかったんだ。ちょっと食べすぎちゃったけど全然後悔してない』
そう言って腹をさするしぐさに笑みがこぼれた。
『それじゃ俺、そろそろ寝るね。おやすみ』
携帯端末をサイドボードに置いて目を閉じると、ほどなく小さな足音が聞こえベッドの端がわずかに沈む。
「もう寝ちゃった?」
清光がささやいて顔を覗き込む。則宗は薄く目を開けてかれを抱き寄せた。
「いいや。kiyoのリールを見てた」
「どうだった?」
「今夜もよく眠れそうだ」

夜ごとふたりでもぐりこむ寝床はいつだってあたたかい。
則宗は胸の中に清光を抱きしめると湯上りの甘い髪の香りをかいだ。
冴えない日は多い。いろんなことに幻滅して天を仰ぐことだってしょっちゅうだ。
「おやすみ、則宗」

それでも、眠る前のこの瞬間が則宗は好きだ。甘い声はまるで、一日をよく乗り越えたと言ってくれるようだ。
だから則宗も告げる。
ろくでもない一日だったかも知れないけれど、乗り越えてここへ帰ってきてくれてありがとう。
また明日、新しい一日をともに迎えよう。
「おやすみ、清光」

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。