そうですねえ。
今、読んだばかりだから、本当の思いつきで、軽薄なんだけれど。
エモい記事が...というのは
つまり、その「記事」は「記号」として成り立っているし「そのような消費を考えて書かれ・そのように消費されている」のが問題で
「記号」ってなにか...パッと思いつくのは
画家二人が競っていて、一人が白い覆いを描き、もう一人の画家が「さあ、その覆いを外したまえ」と言った時に勝敗が決まった。
「白い覆いの絵」を白い覆いの「記号」として見た
内田樹先生の文章で、読んだはずなのだが、ちょっと探せない。すまぬm(__)m
でも。まあ、多分「記号」って、これで。エモい文章って、こういう消費が暗黙のうちにされる...ような気がする。
猫も、良質なエッセイは好きですよ。読んでいて気持ち良いですしね。うん(^^
だけれど。
多分、それは猫の「外」には出ないんですよ。だから気持ち良いんですけれどね。美意識が満たされて・負荷がない(^^;
でね。
気になるのが
「良質な記事」でも、多分今はそう読まれているんですよ。
あの寄稿が言っている
>共感したい人たちの読みたい方向に強引に読まれるばかり。いずれにしても消費財の役割
というのは
「記号としての読み方しか」「しない現在」
のことを言っていて
ついでながら、その人たちは「自分の主張にも、記号を使う」
「そしてそれは、右左・差別差別反対のどちらでも」
だと思うんですよ。
まあ、猫は全文を読んでいないし、問題の点は、全然知らないから、危ないとは思うんですが。
少なくとも、その主張は正しいと思う。
例えば
「複雑でなければ」という主張をしている書き手が「そのまま、だからxx」...。
おーい...(^^;
多分「複雑でなければ」云々は、その人の気に入ったロジックや世界観で。それを「記号」として。己に取り込んだ。
うぬ。
それって、どちら側ってことはなく。左・反差別にも頻繁に見かける。
人は「記号」ぢゃないです。そんなに単純なものではない。
信じるものの裏には、傷があり。傷からは、痛みと血が流れている。
それを込みで話すのと、無視するのは、違うと思うのですよ。
本人だって、痛いから、傷に無遠慮に触れられるのは、腹たつし、失礼だけれど。
それを「無視」して「記号」として読まれるのは、また違うと思う。
...うん。
ちょっと、大きすぎるのかな。上手く言えないのですが。
ちょっと、レスポンスが早すぎる
おお。
猫より、よほど良いこと言われていました(^^
レビューぢゃなくても ですね。
>短絡的批判には自分が前提とする枠組みの妥当性に関する省察が伴っていない
かっこよい(^^ (おい
>長谷川諒|音楽教育学
>何かをレビューする時には「肯定的に評価するポイントを探そうと批判的に見る」ような態度が前提にないとだめだよね、短絡的批判には自分が前提とする枠組みの妥当性に関する省察が伴っていない