『関心領域』の登場人物の
ヘートヴィヒのお母さん、近所だったかの知り合いが革命家だったか思想家だったかで(台詞も内容もあやふや)あぁ怖いみたいなこと話して、あの家のカーテン欲しかったけど他の人に取られてしまったと世間話で話す場面、もうそういう感覚でそういうものだと思ってるからなんだな。そんな彼女でさえも隣から響く銃声や悲鳴や夜も絶えない煙を見るのは耐えられなかったのが印象的だった。ヘートヴィヒはこんな世の中で「楽園」を築いたのだから手放したくない(それが収容所の隣からだとしても)て上手く言葉に出来ないけど割り切りがあったのかな。酷いことが行われていると分かりながら恩恵を受けることを受け入れている。あの銃声や悲鳴を環境音位まで割り切って聞いていたのかなそこは分からない。お手伝いさんへの最後ら辺の言葉もそういう価値観や常識が馴染んでしまったのかな。彼女が望む望まないに関わらず。あそこもしんどかった。
あと『関心領域』観てて(映画の作りの話)
冒頭タイトルの後に段々と真っ暗になって音楽だけ流れるのが予想より長くて「これはもしかして映像トラブル…?」とほんの少し心配でそわついてしまったの今思うと恥ずかしかった…。映画自体が見えている「外」の音について考えるものだったからそういうものだとすぐに察せられなかった
淡々とした映像で時々画面が真っ赤になったり「現在」が出てくるのとかすごいなあと思いつつそれ以上上手く考えがまとまらなかった。現在の遺品の数と写真は思ってた以上に気持ちが沈んだ
上手く文章に出来ない…。その時の「当たり前」や「常識」みたいなのが結構あっさりと(じわじわなのかもだけど)それが非人道的や倫理的に駄目なことであっても受け入れてしまうんだな。分かってはいたけどそこはやっぱりどうしても怖かった。自分もそこにいたらそうなってしまうんだろうなあ、と思えて落ち込んだ。自分の価値観に自信がないので周りの言う事そのまま信じてしまうから。
というのも監督がそのような意図で作ったみたいなことを事前に聞いてたからそう感じた、みたいなのもかなりあると思う。でも監督のそういうインタビューやアカデミーでの言葉で観ようと思ったのもあるからそこはもうほんとどうしようもない
『関心領域』観てきた。人は慣れる生き物で自分と異なる他人をそうしてもいいものだと周りが決めれば結構簡単にそういう振る舞いをしてしまうんだなというのを改めて感じた。
馬場のぼる展を観てきた。作者のいくつかの絵本がリトグラフという方法で作られててその解説と実物を拝見したけど、この過程で色を指定したり完成した絵を想像できるのすごいなあ…となってた。絵本や漫画から絵画まであって、アクリル絵画の柔らかい色合いがとても素敵だった。水彩の滲みや透明さもよかった。スケッチもいくつか展示されてたけどそれが当然なのだろうけどめちゃくちゃ上手くて(猫のスケッチの少ない線で的確に形作られてるものだったり、軒下のスケッチの緻密さとか)だからこそ漫画や絵本での少ない線で魅力的で洗練された描く描けるんだなあと思った。
なんて言いながら作品自体は11ぴきのねこの一と二を読んだかな位と絵の本をぱらぱら見た程だったので、きちんと絵本も見たり読んだり出来て楽しかった。11ぴきのねこは二作目が好きかな。あほうどりがとてもかわいい。
アクリル絵でとても素敵だーってなったやつがあってそれを特にまじまじ見てしまった。タイトルもおかしくてかわいかったな…ねこと植物のやつ…(もう忘れてるけど)
『無名』昨日観てきた。スパイてあそこまでして自分の立場を隠さないとやれないのかと思った(感想…?)時系列を敢えて変えてるのが上手くいっているかはよく分からなかったけど個人的には好きでした。ただ最後の最後の本編場面はそこまでいれなくても…とも思う。空白を楽しむ作品ではないんだなと思った。
トニー・レオンの眉を下げながら困ったように笑う仕草や、愛しい人を見つめる表情にやっぱりどうしても素敵だなあと感じた。衣装替えも沢山で色んな表情もアクションも見れてそこは楽しかった
『異人たち』続き。ハリーとアダムのこと
ハリーの家族と自分を語る場面、落ち着いてて慣れたもののように話してたけど全然そうではなかったのだよね。見てるこちらはその時の気持ちを想像して泣いたけれど、私が想像する以上の悲しみだったことを思う。孤独で愛されたくてアダムの部屋を訪れたけれど、彼があまりに不安定で孤独であるから寄り添ってくれた優しさを思って切なくて泣いてる。でも最後にアダムはハリーの孤独に寄り添って、お互いに必要な優しさを相手にしてくれてて、上手く言えないのだけど二人はお互いに平等なのだなと感じた。
何であんな突然の出会いで、前から唯一の住人だから気になってたのかな、とは言えあんなに好き好きな態度なんだと最初不思議だったけど、彼の願望故もあったのかな。だからこそしんどくて、どうしてなんだて気持ちも捨てきれない。人は孤独と後悔を抱えながら生きていくしかないのだろうなという納得。それでも一緒にいたい、その人を大事にしたいという意思の話なのかなと思いました。
ハリー、アダムの部屋に訪れて断られた後だったらどうしよう、となり苦しくて、ただなんか『異人たちとの夏』観た後だと確信が持てて泣いてる。後悔と孤独のお話。ああしていれば、こうしていればと思う日々。「足りることなんてない」と分かりながら。それでも辛いよ
『異人たち』もう少し考えたかったけれどまとまらなかったので今の時点での感想です
母親がアダムがゲイであることを聞いて徐々に表情が強張り、ある瞬間に拒絶したことが分かるあの瞬間が苦しくて、見ててつらかった。最期までには理解を示そうとしていたけど、多分心の底からは変化は出来なかったのだと個人的には感じてる。それくらい彼女が生きてた時代の偏見は今より深刻だったろうしそれを覆すことは難しいのだと思えた。でも、それでも、アダムの幸せを願う気持ちもあるから。だから最後にはあのように話せたのかなと思った。意思が勝ったというより共にある感じ。「お前はどうしたい?」て父親の言葉のとおり、意志の話でもあるから。
父親の物分りが良さそうにしていて実はそうでもない(と自分は感じた)ところもリアルだった。父親が、「同級生ならいじめてた」と話す位なのだから偏見を無くすことの難しさを感じる。あとこういうことさらっと(言う本人はさらっとは言ってなかったろうけれど)言えること、それを言われたアダムのそうだろうという納得や諦めや悲しさを思うとつらかった。でも自分の過去の行動を謝れて、いいよと言ってもらえた父親はよかったね…というよかったと個人的に少し冷静に見ている自分もいる(父という物語に存在する人にすごくしんどくなる人間なので)。
洋画や旧作邦画を観たりしてます/ツイッターからの避難先 /無言フォロー失礼します