本文からの引用なんだけれども、岩波というよりかは自己啓発本(確かにこれもハウツー本ではあるが)的な帯だ

卒業論文題目って、良くも悪くも面白いよね

ついこないだも卒業論文不要論を心理学者たちがつぶやいていたけれども、彼らの主張は「コースワークではなく卒業論文が1番の勉強になるのは、学生たちに課しているカリキュラムが悪いのでは」「学問的に意味がないし、書かせたければゼミレポートでよいのでは」であったと思うが、その辺は心理学が「理系のフリをした文系」故の話だと思うラジね。

この本、まつざわせんせの「この本には「史料批判」という言葉は3回しか出てこない」とか、「先行研究をつくる」という表現だとか、従来の歴史学研究入門書の定番な言い回しを意識的に崩してきているよね。

一方で「過去との対話」が先行研究という「過去の思考」という形で出てきたな。
「本当に「対話」なの?」みたいな感じのことを言う人が最近出てきているけれども。

ああ、「対話する過去」が史料(基本的に書いた人は死んでいる)から研究(書いてるのが指導教員とかだったりするかも知れない)へと、リアルに対話ができる可能性がある過去へシフトしているのか。変化球だね。

2つ目きた。最初は何の説明もなく出てきたけど、ここでは『西園寺公と政局 第4巻』の昭和9年7月6日を使った解説をしているぞ。ら

『原敬日記』はちゃんと校正せずに出してしまったのではないのか、とは影印本の編者であった、学部の時の指導教員の弁。翻刻はそういう形での「批判」も必要なケースがある。

そういえば、『秩父事件史料集成』に収められている「絵入自由新聞』の「もう安心」という社説だけれども、その翻刻と原本(国会図書館のマイクロフィルム)と比べると不正確なところが多いんだよね。明治の新聞は字が小さい上に、物によっては字が潰れてたりするから、注意が必要。

「論文が書けないのは勉強をしていないからだ」とも言われましたねえ。

第2部のまつざわせんせのところにある吉野作造の民権史論、チェックせなあかんやつやないか

明治文化研究会を「何か面白いネタを披露する会」と評しているけど
それがダメだったのが遠山茂樹で、逆にネタに困らなそうだったのが大久保利謙よね。

フォロー

母校、左翼大学らしく戦後歴史学の大物が多数在籍していたけれども、史学科は先の「何か面白いネタを披露する会」の流れだったりするのよね。そういう意味では面白い場所ではある。

わかりやすいんだかそうでもないんだかな図だ

「価値が合わない人といかに対話をしないか」みたいな潮流が強くなってきている一方で、まつざわせんせはいつも通りだ。

『歴史学のアクチュアリティ』での論考から変わらないけれども、世間は……。

放大院で夫馬進の講義(すでに閉講)をとったけれども、岸本の墨銀の流入を中世と近世との画期とする説を政治体制への影響のなさから批判してたね。

要するに清末まで受け継がれた科挙体制が確立したのが宋代であり、近世の始まりである、と。内藤湖南あたりの論争はよく知らんのでパス。

あと、マルクス主義的な発展段階説だと、朝鮮みたいな封建でない社会が説明できんぞ、というのが日本の朝鮮史家から出ている(韓国では、まあ日本のせいだけれども、「近代の相対化」ができていない)。

政治史の項に入ったけど、伊藤・佐藤ら反動連中をちゃんと書いていて、メタヒストリー本としてもとても信用できる。

佐藤誠三郎「(坂本多加雄は)顔からして保守反動だよ」

マルクス主義とほぼ没交渉な研究をしていたとして升味準之輔の名前が出てきたけれども、安岡昭男もそういう概念を全く使わずに明治史の概説書(『日本近代史』芸林書房。法政大学通信教育課程のテキストでもあり、こちらは今は第4版)。を書き上げてたりするのよね。

『近代日本研究入門』における三谷太一郎論文と伊藤隆論文から大正期と昭和戦前期との(研究における)断絶の指摘。そういえば、倉山満が牧原憲夫の「国民国家論」とそれにまつわる論争を「明治史のの連中は訳のわからない論争をしている」と腐してたけど、実は牧原が敗戦に至るまでの道の原点として行き着いたのが先の説なんだけれども……ここにも断絶が見られますね。

政治史から政治思想史に飛んだけど、元々感じていた「史学科のいう歴史」と「政治学科のいう歴史」との空気感が全然違うねえ。ただ、政治学は(神戸の山中から文句がよく流れてくる)ポリティカル・サイエンスが強くなっていることを思うと、政治史・政治思想史と歴史学との距離感は、前者が押し出される形で接近してきていると言えてしまうかも。

ヤスリがけのこうのせんせの言う「第n次史料」だけれども、その可変性は歴史学サイドでも指導はされてるんですけどね、と。ただ、実証史学ブームの中心である中世史や戦国・織豊政権時代は指摘の通り古写本・古文書主義が非常に強いと側から見て感じる。近代史は史料の幅自体が広いからそうでもないけれども。

わいは本の帯とかに「一次史料を用いて解明!」とかあると逆に疑ってしまう人間なので、実は法学部人間なのかも知れない。

今は 「「反権力」の怖さ」の時代なのかもね。新左翼のみならず、オウム真理教だとかも含めて。

農村史の後退、荘園研究も併せて現代人の農村への関心の薄さであるよなあ。

ふじのさんの民衆史・社会史で、不思議と見なかった「昭和史論争」がついに出た(昭和ファシズム論争の方は出てきてたのに)。色川大吉とか安丸良夫だとかの名前が出てきたし、そもそもふじのさんの文ということもあり、すげえホーム感があるぞ

「誰を入れ、誰を入れないのかの線引き」肉だけれども、案外都市民衆ってのは農民たちと比べると軽視されてきたのではないのか、という疑問を持ち続けているのはしょっちゅうボヤいている通り。

今の共産党の「主婦」「女性」を強くアピールする一方で、マルクスや党自体の歴史的コンテクストを後退させたかのような在り方って、このような消費者運動の流れなのかねえ。

「古文書マッチョイズム」とでも言うべきか、こういう手合いは日本中世史、特に戦国時代の研究者に多いと思うな。

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