為政者や権力者の暗殺や暗殺未遂に対して、市民が「暴力に反対/暴力を許さない」あるいは「暴力は民主主義の敵だ」と言う際、権力者の暴力性や民主主義の暴力性を棚に上げてしまってはいけないと思う。
どれほど無惨に踏み躙られようと殺されようと鑑みられない市民の命があり、一発の凶弾で世界中から憐憫が集まる権力者の命があるという、この構造に言及することなく発される「暴力に反対」という言葉は、権力による暴力を隠蔽する機能を持ってしまう。
「暴力に反対」という言葉には、国家/政府そして権力者による暴政や弾圧または虐殺と、それに抵抗する市民の放棄を、同等のものと見做す両論併記の罠が存在している。

暴力への断固とした反対の立場を示すならば、必ず最初に特定の出自や属性への差別扇動への断固とした反対を強く表明する必要がある。そして、政府や権力による弾圧や排除はが「最大の暴力」であり、なによりもまずこれに反対すると示す必要がある。
私の立場は基本的に上記だが、私は市民による圧政に抵抗する手段としての蜂起は肯定していおり、棄民政治を行う国家や差別的な権力者を降すために市民が行う民衆暴力についても(適宜個別の判断が必要なのは勿論として)肯定し得ると考えている。 1/3

また、「暴力は民主主義への攻撃」という言説が、結局は「暴力ではなく選挙で」という言説を形成することも私は危惧している。
選挙は民主主義の一手段だが、選挙だけが民主主義かのように述べる言論は危険だ。「民主主義=選挙/投票」という図式のみの広がりは、この社会に存在する選挙権のない人や投票手段のない人を包括しておらず、全く民主主義的でない。
民主主義の実現と維持のためには様々な手段があり、権力からの弾圧や排除に抗うための手段は決して選挙だけでない。
暗殺やテロリズムは民主主義への攻撃である以上に、社会そのものへの攻撃であり、主義に関係なく全ての人への危機であるはず。なので、暗殺やテロを殊更に「民主主義の危機」とする言説は危うさがある。市民自らが「暴力は民主主義の敵」と位置付け「民主主義≠暴力」とするとき、民主主義社会それ自体が市民に働く暴力が不可視化される。
民主主義もまた、権力者や支配層による人民への暴力を引き起こし、それを正当化してきた。そして、民主主義は革命や暴力の歴史によって形作られてきた主義思想および構造である。
こうした「民主主義≠暴力」という言説は、それらの社会構造と歴史を都合良く無視してしまう。国家そして権力者の暴力を温存し、市民側の抵抗のみが「非暴力」に限定されることに繋がる。 2/3

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日本やアメリカを含め、民主主義とされる国家と政治(そしてその中枢にいる権力者)が市民に暴力を働いていること、または民主主義国家が管轄する暴力装置によって排除/弾圧され文字通り殺されている人たちが沢山いるということを鑑みることなく述べられる「暴力反対」や「民主主義≠暴力」という言論は、社会構造に組み込まれた暴力を漂白しすぎている。
国家というものが強大な暴力性を持つ以上、国家を支える構造はそれが何の主義だろうと必ず暴力を発露する危険があり、「暴力を許さない」と発信する際には、この権力関係を念頭に置いておかないと「制度に周縁化された人々の抵抗」と「権力による暴政」を両論併記してしまう言論に簡単になり得る。
……と長々と書いたが、つまり私は、本日起きたような権力者の暗殺(暗殺未遂)事件を受けて何かしら意見を発するときに、「あらゆる暴力に反対」などと言うのは社会構造と権力勾配を無視しているあまりに安易な意見だし、そうした言説は権力者に与することになる、と考えているということ。 3/3

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