「仏教の思想 知恵と慈悲〈ブッダ〉」一巻め
専門的知識ない人間が読んで気になった点や雑に思ったこと。
・釈迦の生きた前5世紀頃はプラトンや孔子と同時代にあって、大陸の東西で様々な思想が乱立していた。この頃の人類は、神々を祭祀し伝統的宗教の枠組みで世界を見ることに満足せず、権威を否定し、合理的な思考で世界を理解する方法を求めるようになったのかもしんない。
当時のインドにも、六師外道と呼ばれたように様々な思想家たちがいて、釈迦もまたその中から生まれた。彼らの思想を見ると、当時の論点と、仏教の相対的な位置がわかる。
たとえば無常に対しては、常(不滅の霊魂)を語る他の思想があった。
因果や縁起に対しては、価値判断抜きに因果を全面肯定する宿命論や、善悪による応報を否定する無道徳思想があった。
仏教が無常無我を唱えたのは、他のとこが常や我について語ってたからなのかも。
・中国においては仏典のうち後期のものに釈迦の真意を見て高く評価してきたが、近代の仏教研究では、俗語をパーリ語で記録した初期仏典が釈迦に近い時代に書かれたもので、サンスクリット語による後期仏典は後の時代に書かれたものだとか。
・無我というのは自己を消すことではない。自己は不変の霊とかじゃなく、他との関係性で成り立ってるものだ、とする見方? 自己を確立することは強く求められてる。
・五比丘への最初の説法で「(相手が)悟った!」と喜んでたのって、自説を理解された喜びだけで言ってない? そも初期においての悟りって、理論を理解して死ぬまで実践して穏やかな心を維持できれば良い、くらいの意味だったりしない? 後世にやたらハードル上がっただけで。
・後の方でキリスト教への対抗心を滔々と語ってるのだけど、東アジアの停滞と、ギリシャ哲学やキリスト教という土壌から生まれた近代的な価値観や現代科学とを見比べるとき、キリスト教を見下すようなこの立場は、なんだかなあと思う。たしかに仏教は殺生を禁じる。しかし国単位民族単位で見ると、それに何の意味があったというのか。
・「慈悲」。それが仏教の中でどう理屈付けられてるのか良くわからない。独り悟ることもできた釈迦が衆生を救うため説法を広める、それが仏教の慈悲なのか?
一切は苦であり、苦は執着により起こり、執着を滅すれば苦が消え、八正道の実践でそれを実現できる。八正道は善を行い悪を禁じるが、これ自体に合理的理由はあるのか?当時の穏健な道徳、または釈迦個人の人格に由来するものでしかなかったりしない?
続くかも