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あるいは資本化/商業化による要請なのかもしれないな,すぐ資本主義のせい!とか言うのは嫌ですが

まあ今のところは単に私の性格が悪いだけだとしても,一般に(?)芸術の鑑賞体験が私秘的/個別的/不干渉的になっていく傾向はあったわけで(能楽・歌舞伎,旧劇→新劇,映画館,クラシック(ただし音楽は一度大衆化という逆のフェーズを迎えているらしいが)),近いうちにわたしのような人が増えてもなんらおかしくないと思う
これが芸術固有の性格なのか近現代が生んだ現象なのかは知らないけど

ライブ会場の一体感,この世で最も嫌いなものの一つだ

大きな絶望ーーたとえば人間はみんな孤独に死ぬしかないとか!ーーを見つけたとき,それを「そんなものは当たり前だから気にしても仕方ない」と価値を低める,これが安吾の孤独に対するやり口だったわけだが,うーむ,果たして……

救いがないということだけが実に唯一の救いなのであります。私はこの言葉に完全に賛同するけど,しかし安吾がこれを語るとき,安吾もまた弱者を扇動する僧侶のひとりにならざるをえない,ちょうどニーチェがそうであったように

もっと簡単にいうと内容が本当に難しいのか書き手がイキってキショい言葉使いしてるだけなのか区別がつかないという話

哲学書の意味のわからなさと数学書の意味のわからなさは同種のものなのか,という疑問

かつての私に「語学が得意でなくても言語にまつわる学問を専攻に選んでいいんだよ」と言ってあげたい

俺は,俺は面白いものにふれたいのであって,面白がりたいわけじゃないんだよ

またまた『これがニーチェだ』を開いてしまった 何度読んでもすごい
こういう本当に優れたものだけに接して生きていきたい

世界がつまらないんじゃなくお前がつまらないんだとかいうクリシェを使うやつは引っぱたきたいが,それはそれとして世界がつまらないとき,オモシロ・知覚の分布の分散がちぢんで全てがつまらなくなっているのか,それとも形状はそのままに閾値だけが平行移動しているのか,というのは見極めることが可能そうではある

好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ

反トランス差別ZINEもなんというか期待外れの感がある 別に政治闘争には興味がないし(トランス側が勝てばいいと思うがそれはそれだけの話だ),エッセイはなおさら

obakeweb.hatenablog.com/entry/

分析系のノリ自体は好きなのだが(なんで大陸系の奴らは名前に権威があると思ってるんだ?),しかしどうも議論が浅薄に感じるときはある
たとえば作者の意図問題だと,ここでは『プラン9』がゴミカスであることを前提にして議論が展開しているーー実際ゴミカスなんだろうーーけど,それって一種の論点先取じゃねえの,先に世間の評価ありきで話を進めていいのかよ,と言いたくなる

すべてにムカつくフェーズに入っており,こういう時は人と話したりなにかに打ち込んだりするとたいてい改善する(とされている)のだが,むしろこのムカつきフェーズのほうが私の本性だと言いたい気持ちがある いや,私は本性とか本音とかの存在を否定しているはずなんですが……

twitter.com/honnoinosisi555/st

頭がおかしくなってるのでこういうの見るだけでなぜか腹立ってくる 解釈と原文が同値でないなんか当たり前だろ,当たり前のことを偉そうに書くなよこの野郎……

わたしがゼロ年代批評を嫌いになれないのは彼らの「とにかく全部物語の次元で語ってやるぜ(だってそれ以外に手札がないから)」という姿勢に共感してしまうからだと思う

note.com/sghrw/n/n10e90cee9f57

難しいねえ テロリストの手法となにが違うんですか?と聞かれるとわからない
環境は守った方がよい(とされている)がテロはそうではないので,単に帰結主義をとればいいだけのような気もするが,そもそもテロの手法の強み/危険性は「とりあえず広める」ことにあるわけで,帰結のよさわるさで手法を判断するのは誤りであるような気もする

もし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に戦争と遊び戯れていた。

かつて某人物にわたしが珍しく本音ーーというものがあればだがーーで悩みをしゃべったとき「考えすぎだから」で済まされたのがジワジワむかつくぜ

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