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ベネターの生の意味論適当すぎてマジでムカついてきたな

わたしはバカなので,フロイトをバカにしておきながらニーチェに説得力を感じているし,永井を読んでいるくせに哲学をやらずに永井を信奉している

20年くらい前のまだ「啓蒙してやろう」という意志に溢れていたころの永井がやっぱり好きだな
それ以降の本は単純に難しすぎて理解できない

わたしは永井均と坂口安吾が大好きで,この世が滅んでも彼らの著作だけは消えずにいてほしいと思うくらいだけど,永井も安吾も私のことは絶対に嫌いだろうなという確信がある

何度でも言うがせむしが自分のこぶをアイデンティティにしてしまうのはほんとうによくないんだよな

自殺にしろ自然死にしろ死ぬ時は一度失踪して名前をなくしてからのほうがよいという美的な直観がある

キモくて性格が悪くて理性が歪んでいるだけで欲望のあり方はごく普通なので困っている

TwitterキモいからやめたいけどTwitterやめてマストドンとブログに引きこもる方がエコーチェンバー的な意味では最悪じゃね? とも思う

思ったことを溜めずにトゥートしまくっているがこれが健康にいいのかはよくわからない 負のサイクルに突入しているような気もする

さっさと耐久型フーディンみたいな生き方をやめて普通に種族値の高いところへ努力値を振るべきだった

かつて赤岳鉱泉で覚えた疎外感と,去年今年の文フリで覚えた疎外感とはかなり似ているな

いつの日,いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考える。一つの石が考えるのである。

利口な人は,それもお前のずるさのせいだというだろう。私もそう思う。私は悪人ですと言うことは,私は善人ですと,言うことよりもずるい。

偉大な破壊,その驚くべき愛情。偉大な運命,その驚くべき愛情。

まだ足りない。何もかも,すべてを捨てよう。そうしたら,どうにかなるのではないか。わたしは気違いじみたヤケクソの気持ちで,捨てる,捨てる,捨てる,何でも構わず,ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に,捨てるというヤケクソの志向が実は青春の足音のひとつに過ぎないことを,やっぱり感じ続けていた。

私はみんなが本当にゲームを生きているのかどうかわからない(翻訳: マジで面白いと思ってやってるのかわからない)のでいつも不安であるよ

だからたぶん本当の「価値」は,ゲームを単にプレイするんじゃなくて,ゲームを生きないとみえてこないんだろう 私には無理ですが……

「そもそもなんでそんなゲームに参加しないといけないんですか?」という問いに答えられないのは全部アウトだと思ってたけど,実際はみんなゲームを意図的に選択してるわけじゃなくて,気づいたらそこにいた,というのが実情なんだ……と今さら気づいた

世の中には何が面白いのかわからないものがたくさんあって,それは僕がバカだからわからない場合と,単にゲームに参加していないからわからないだけの場合がある

あと5年くらいして実家の猫がみんな死んだら一度失踪したい

今のところ父親が死ぬことくらいしか人生の楽しみがないのに(別に "毒親" でもなんでもないが),まだ20年くらいは余裕で生きてそうなので困る

死ぬのは絶対に嫌だし自殺は所詮エゴだからカスだと1年くらい前まで思っていたが,最近は考えが変わって,死ぬのもさして嫌ではないし,自殺は依然としてエゴなのでカスだがそれでも以後のわるさを断ち切れるぶんだけ相対的に善い,と思うようになった

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