10年ちょっとのあいだ渋谷が最寄りターミナルだったのだが、そこで心がけるようになったのは「ハチ公口とハチ公広場を使わないルートを憶えておく」だった 混雑除けにいまだに有効なので困る
本来的には一般・サークル・スタッフの参加機会を最大化できる、言うなれば休日の最大公約数として盆暮れ開催のコンセンサスがあったはずだけど、それだと無視できない層を取りこぼす時代がやってきたというか、そのへんだけは初期平成のレガシーシステムのままですよねってことなんじゃないの事の本質は
あえて言うならツモ切りで済ませてよい牌を抱え込んで大火傷するセンスのなさみたいなのが表現の自由まもりたい中年男性オタク勢には多すぎる
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。
良かった点はアクションと音楽。ここは東映らしく子どもが見ても見入る力の入れ方で、音楽も正月路線らしいリッチな音使いが日本爆裂のときを踏襲していて、深夜アニメからの方面とは違う空間を作れていたと思う。
それから哭倉村のエグみがきちんと調整されたものになっていて、前期昭和に対する突き放した目線なんかも(安全なアトラクションとして)リピーターを増やす要因だと思う。単に妖怪の怖いのは当たり前で、そこに焦点を当ててで恐怖を煽ってもかえって怖さが伝わりづらくなるリスクがあるわけで、そこに因襲村をかませる必要があるのはよくわかる。
こういう手法はTRICKとかがうまくコントロールを効かせていたとこから四半世紀近く経っていよいいよ完成形に近くなってきた印象。なので、最後に鬼束ちひろがエンディングを歌い上げててもぜんぜんナチュラルに収まりそう。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。
黒幕と犯人はすぐ察しが付いた。日本爆裂でも黒幕は身内、それも子どもに成り代わってるんだよ!!! ただし時貞と沙代が結託していないのかどうかは最後判明するまではわからなかった。とはいえ真相判明で「それはこの想定客層の作品で盛り込んでいいやつなのか……」ってなったのでわからなくてもしかたない。
それから父さんと水木のタッグが成り行きであんな綺麗に成立していいのか、そこはみんなの圧倒的な想像力にまかせたから成功したようなものなんだけど、もうひと味というか、あといっこくらいトリガーをつけておかないと「え」ってなるんじゃないのか。
にしても「記憶喪失にすればいくらでも前日譚が作れる」ってセルセタ(そしてノーディクス)のアドル・クリスティンと同じ手法で、最近はそういう手法が流行ってるなあと。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。
村が丸焼けになってスッキリする映画は「ドッグヴィル」以来だった。
2桁回数見た第5シリーズの「日本爆裂」とどうしてもかぶってしまう(監督も同じ古賀さんだし)ので、村のようすなんかは「火サス」だなーと。エグいけど安全に見ていられるあの様式美。そこにそれほどのものは感じなかった。
5期は巫女を社会的に孤立させてヤトノカミの封印を解くという構図がそのまま世相への批評となっていたんだけど、解決法として「親子の愛」に帰着させたのがなんというか母と子のフジテレビだよねー、って後味で、風祭華というパーソナリティーを引き続き軽視してないかというモヤモヤが残り続けたんだけど。むしろ今回みたいに最初からテーマにがっつり埋め込んでしまえば違和感もへったくれもない。ちからわざ。
日本社会でいちばんDXらしいDXをやってるのがスカウトグループに特殊詐欺集団というの、本邦でのデジタル官僚制の本質をとてもわかりやすく示しているのでは
ジェリー・Z・ミュラー「The Tyranny of Metrics」の邦題が「測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」だったのを思い出すと、つまりエビデンスで殴るというのは簡単に言えばエビデンスの暴政ということだし、「なぜ科学コミュニケーションは失敗するのか?」という広報組織官僚制とその機能不全の話じゃないの、ということまで思い至るので、そんなに変だとは思わなかったのだけど