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しぶちかとマークシティ、東横線の地下通路をどう使うかという問題ではあるのだけど

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10年ちょっとのあいだ渋谷が最寄りターミナルだったのだが、そこで心がけるようになったのは「ハチ公口とハチ公広場を使わないルートを憶えておく」だった 混雑除けにいまだに有効なので困る

個人的にも29日や31日は日程改革のあった後の高校選手権を観に行くことのプライオリティが上がってしまったし、都内のゴーストタウン化ってほんとに年内ギリギリまでなくて、正月1日2日くらいにまでずれ込んでる感覚はある

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あの時季に自分の用事だけで終日過ごしても何も言われない単身/若年層が減少気味ということの裏でもうひとつ重要な事象として、同時に日中から行われる催しが規模の大小問わず、さらに言えばオフライン/オンラインの垣根が低くなってとにかくやたら増えたこともあると思う

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本来的には一般・サークル・スタッフの参加機会を最大化できる、言うなれば休日の最大公約数として盆暮れ開催のコンセンサスがあったはずだけど、それだと無視できない層を取りこぼす時代がやってきたというか、そのへんだけは初期平成のレガシーシステムのままですよねってことなんじゃないの事の本質は

キッチンに鎮江香醋を常備しておくと中埜酢店との付き合いは限定的なものになります

サイロにアタマ突っ込んでしたり顔、みたいなのもういいよ

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あえて言うならツモ切りで済ませてよい牌を抱え込んで大火傷するセンスのなさみたいなのが表現の自由まもりたい中年男性オタク勢には多すぎる

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。 

良かった点はアクションと音楽。ここは東映らしく子どもが見ても見入る力の入れ方で、音楽も正月路線らしいリッチな音使いが日本爆裂のときを踏襲していて、深夜アニメからの方面とは違う空間を作れていたと思う。

それから哭倉村のエグみがきちんと調整されたものになっていて、前期昭和に対する突き放した目線なんかも(安全なアトラクションとして)リピーターを増やす要因だと思う。単に妖怪の怖いのは当たり前で、そこに焦点を当ててで恐怖を煽ってもかえって怖さが伝わりづらくなるリスクがあるわけで、そこに因襲村をかませる必要があるのはよくわかる。

こういう手法はTRICKとかがうまくコントロールを効かせていたとこから四半世紀近く経っていよいいよ完成形に近くなってきた印象。なので、最後に鬼束ちひろがエンディングを歌い上げててもぜんぜんナチュラルに収まりそう。

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「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。 

黒幕と犯人はすぐ察しが付いた。日本爆裂でも黒幕は身内、それも子どもに成り代わってるんだよ!!! ただし時貞と沙代が結託していないのかどうかは最後判明するまではわからなかった。とはいえ真相判明で「それはこの想定客層の作品で盛り込んでいいやつなのか……」ってなったのでわからなくてもしかたない。

それから父さんと水木のタッグが成り行きであんな綺麗に成立していいのか、そこはみんなの圧倒的な想像力にまかせたから成功したようなものなんだけど、もうひと味というか、あといっこくらいトリガーをつけておかないと「え」ってなるんじゃないのか。

にしても「記憶喪失にすればいくらでも前日譚が作れる」ってセルセタ(そしてノーディクス)のアドル・クリスティンと同じ手法で、最近はそういう手法が流行ってるなあと。

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「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」みてきた。 

村が丸焼けになってスッキリする映画は「ドッグヴィル」以来だった。

2桁回数見た第5シリーズの「日本爆裂」とどうしてもかぶってしまう(監督も同じ古賀さんだし)ので、村のようすなんかは「火サス」だなーと。エグいけど安全に見ていられるあの様式美。そこにそれほどのものは感じなかった。

5期は巫女を社会的に孤立させてヤトノカミの封印を解くという構図がそのまま世相への批評となっていたんだけど、解決法として「親子の愛」に帰着させたのがなんというか母と子のフジテレビだよねー、って後味で、風祭華というパーソナリティーを引き続き軽視してないかというモヤモヤが残り続けたんだけど。むしろ今回みたいに最初からテーマにがっつり埋め込んでしまえば違和感もへったくれもない。ちからわざ。

文字や言葉を知っていることと文が読めることとの間にはそこそこの溝があるのだが、それを解さない連中しかついったには残らないのではと思う

運営管理まで含め組織を若年層(デジタルリテラシーは高く社会的なリテラシーは低い)で固めるってとこまで必要なのでは、という気づきさえある

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日本社会でいちばんDXらしいDXをやってるのがスカウトグループに特殊詐欺集団というの、本邦でのデジタル官僚制の本質をとてもわかりやすく示しているのでは

ノンポリ志向のつもりで右へ右へスライドしていくオタクカルチャーが昭和以来の右翼と反社の巣窟となっている格闘技興行ムラに出会えばなにが起きるかなんてわかりきっているはずで、事の政治性に気づかない木谷は最悪だし筋の悪いところが案の定今回の件に乗っかってきているのも必然だよねってことで

ゲゲゲの謎はついった反応のピークの出来かたで起きていることがおぼろげにつかめる。

初動でちゃんと正記のタイトルが山をつくるんだけど、略記にとって代わられるまでに1週間ほどズレがあって、そのきっかけとなったっぽい関連ワードがあると。

文書化や数値化といった官僚組織のなかでの活動が必要ないという話ではなく、結局のところその集まっているデータを運用してほんとうにパフォーマンス評価をやって組織をよくできるかどうか、ということが大事なのと同じで、「科学的」データを揃えて理論武装したたけでコミュニケーションは万全とか思っているなら同様の失敗をするし当初の目的も達成されるかどうか微妙なのは当然、というただそれだけの話だと思うし、だいじなエビデンスを銀の弾丸とか錦の御旗として運用したがる連中が多すぎなのだよ

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一定の人たちの逆鱗に触れていて、その反応とかを見てるとまさにその典型が無自覚に撒き散らされてるわけで

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ジェリー・Z・ミュラー「The Tyranny of Metrics」の邦題が「測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」だったのを思い出すと、つまりエビデンスで殴るというのは簡単に言えばエビデンスの暴政ということだし、「なぜ科学コミュニケーションは失敗するのか?」という広報組織官僚制とその機能不全の話じゃないの、ということまで思い至るので、そんなに変だとは思わなかったのだけど

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