米国による占領期には、日本の全てが検閲された。首都の東京でそれが一番激しかっただろう。しかも米国は占領後も親米派の保守政治家らによる政治を後押し。保守政治家らは、自分たちに不都合な戦争の記憶を消す代償に、米国による東京大空襲の記憶も消したのだろう。辛うじて、原爆の記憶だけは占領軍の検閲が終わると、被爆者らの努力で残った。

「 一方、日本政府は64年、東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイ氏に航空自衛隊の育成に貢献したなどとして勲一等旭日大綬章を贈った。これは衝撃的な話だ。また、何万人もの東京の子どもたちが修学旅行で広島に行くそうだが、自らが育った東京の街が破壊的な空襲の被害を受けたという事実には、しばしば無関心だ。私が教えている大学でも、学生たちは空襲被害の詳細についてはほとんど知らない。」

東京大空襲に学ぶのか、忘れてしまうのか - 毎日新聞
mainichi.jp/articles/20230615/

大阪の空襲の話は子供の頃、母から何度も聞かされましたし、親戚に亡くなった人もいるし、小学校の先生もしばしば話題にしていたので、教科書的な知識というより個人的な体験談として記憶に焼きついていますが、東京は人口の流入が激しいのでそのような口伝えが残りにくいのかもしれません。

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それも一因でしょうね。私はまさに東京流入組の子供。でも通っていた学校は東京のブルジョワ家庭の子供らが行く学校で、友人らはみな祖父母の代から東京出身。小中高も東京出身の先生方がいらしたけれど、一回も大空襲の話を聞いたことはありません。唯一、年配の国語の先生方が若い兵隊として、原爆投下翌日に長崎に行かされ、修羅場を見たこと、二次被曝したこと、自分の子供らの健康が心配であることを話してくれました。原爆ついても占領期には反米的な言論統制の為の検閲で、語られておらず、広島や長崎以外の国民にはきちんと情報は流れていませんでした。

先生はご自分の目撃した凄惨な状況を中学1年生だった私らには詳しくは描写せず、ちょっと黙り込まれ、遠くを見るような視線に。非常に鮮明に記憶に残っています。でも大空襲のついては直接話を聞いたことはないです。

やはり、東京では米国と戦って負けた戦争の話はしたくない人が多かったのかも。ハイソなクラスメイトらは、アメリカンクラブの会員で、ちょっと戦後の鹿鳴館みたいに感じました。

>先生はご自分の目撃した凄惨な状況を中学1年生だった私らには詳しくは描写せず、ちょっと黙り込まれ、遠くを見るような視線に。非常に鮮明に記憶に残っています。でも大空襲のついては直接話を聞いたことはないです

こんにちは。横から失礼します。
空襲体験は同じ東京でも地域差があり、それがその後の体験談の内容や伝え方の差となっていると思います。空襲の激しかった東部地域(今の台東・墨田・江東等)では、今でも毎年3月10日には何らかの式典や集会が開かれており、空襲被害の展示などがなされています。私は戦後世代(70年代生)で東部地域(葛飾)出身で、大空襲や米軍機による機銃掃射の話を子供の頃から知っていましたよ。

お書きになられた記事の前半にあるように、Japan Profさんが暮らしていた地域は東京でも空襲被害を免れたか比較的軽かったのではないでしょうか。敗戦後の政治状況を読み親米へと変わり身速くアメリカンクラブに入るような人たちですから、“賢い”振る舞いとして空襲の話など口にしなかっただろうことは想像に難くありません。

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