伊藤明彦 著
『未来からの遺言 ある被爆体験者の伝記』(岩波現代文庫)
胸をえぐられるような被爆体験の話に、まず涙が止まらない。
そして急に、ミステリー小説のような展開。
著者の「被爆体験談の録音」にかける意思の強さに鳥肌が立つ。せっかくだから録音しようか…どころの話ではない。「平穏な安定した生活」を文字通り投げうって、命を削るように全国各地の被爆者を尋ねてまわって、オープンリール950本分の録音を遂げる。しかも編集したテープを全国各地の施設に寄贈する。これをほぼ独力でやりとげるなんて。。。被爆者からの厳しい拒絶にあいながら、孤独、悲観にさいなまれながらも続けた心のさざ波が綴られるくだりは、しゃくりあげながら読んだ。
「友人から自分の生活を気違沙汰だと評されたとき、それが多少の畏怖の気持をこめた言葉であることを承知しながらも平凡な生活者の言葉が持つその重さに、どれほどおびえを感じたでしょうか。」
「気違沙汰か、そうかもしれない。しかしあれだけの数の人々を殺されながら、わずか三〇年しかたっていないのに、彼らのことをたいして思い出すこともなく送っている日々のほうが、いっそう気違沙汰ではないか。」
壮絶な被爆体験を語った「吉野さん」。
吉野さんの体験談をめぐる「謎」を、録音者(著者)がどれだけ暴いていいのか逡巡する箇所は、とても重要だし、なんて慧眼なんだろうと思う。「被爆者が語る」ことの本質は何なのか。
「被爆者が事実をかくしたり、事実をかえて語ったりすることがあったとしても、その責任は第一に私たちのこの作業の方法が負わなければならないでしょう。そして第二に、そうしなければならなく被爆者にさせている、社会の条件に私たちは注目しなければならないでしょう。第三にそのことと、その人が被爆したこととの関係に、深い関心をいだかねばならないでしょう。被爆者が事実をかくしたりいつわったりすることがあるとしても、その事実を追求したり、あばいたりする権利は、だれにもないでしょう。」
「吉野さん」という人物が、この時代を生き、こう語った、という事実が、「核兵器がもたらしたもの」の一つなのだと受け止めるべきなのでは。被爆者の話は信用できない、という類いの話では、まったく、無い。ウラのとれない話は信用できない、などというちっぽけな話では、まったく、無い。
著者の業績は、もっともっと高く評価されてしかるべきだと思う。もっとたくさんの人に読んでもらいたい。
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