「時間-空間の圧縮」の現代に生きる人々は、世界の悲しみを受け止めるにはあまりにも距離が近すぎる。
運動家は平時、言い換えると出来事が起きる前からその出来事に連なる歴史を受け止め、その歴史のなかで自らの行動がどのように位置付けられるのか、そこに自分なりの理解と回答を示すものだ。ところが、運動経験が浅いなかで危機が起こりそこに身を投じる必要に駆られた者たちは、自らの行動が世界全体の運動のなかでどこに位置付くのか、それを自分なりに咀嚼しないまま突っ走ってしまう。そうするとそれらの者たちの思考は身近なところから調達可能な資源や思想を急いでかき集めた出来合いのものをこしらえるしかなく、思いついたまま行き当たりばったりの行動を起こしてしまう。本来はそのような制約のなかで衝突や妥協を繰り返し人格を陶冶していくものだが、理想通りに事が運ばないと関係を断絶し、場をかき乱すだけ掻き回してそれを片付けるだけの責任を取ることもなく内に籠り経験を陶冶する機会を逸する者も少なくない。運動に関わる者が持つべき最低限の心構えとは、自らの思想や行動が、その目的や歴史、経験と照らし合わせてどのように位置づけられるのかを自問することなのかもしれない。