過去の運動では事件を消費することに対する倫理的抵抗が検討され、消費するのではない連帯のあり方を模索することができた。少なくとも、そうするための時間と空間を確保することができた。また、空間的に遠い場所の出来事を客観的に捉え相対化すること、すなわち文字通り出来事から「距離を取る」こともできた。しかし、時間と空間が圧縮された現代では、次から次へと流れてくる情報を素早く峻別し行動につなげることが求められる。また、情報の即時性が強いために「距離の消滅」が起こり、出来事から適切な距離を取ることができない。距離を取るには出来事があまりにも近すぎるのだ。このような状況では、出来事を消費することの是非が検討されず、それどころかそれを検討すること自体が非倫理的だとみなされる。出来事から適切な距離を取ることは冷笑的態度であるとされ、そんなことをしている暇があるなら遠い場所にいる人々のためにすぐに行動すべきだという価値観が新たな倫理として前面化する。しかし、そのような価値観と出来事の近すぎる距離が依拠する土台とは、他ならぬ現代資本主義の経済と価値観なのである。これを相対化することは、現代の社会運動に関わる人々には厳しいのだろう。