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SNSで見かけた話題に乗ってみる。

仏教の教えは因果応報、特に原始仏教は究極の自己責任ということだそうだが、「これは教わる側の信念に合わせた"方便"である」との意見にはある程度同意する。それに、出家者に因果応報の信念を持たせることは、修行に良い影響があるだろう。

ところで、公正世界仮説(公正世界誤謬)は古代インドにあったのだろうか。自然も社会も苛烈だったため、「人の行いと結果は関係ない」という世界観だったのかもしれないと想像するのだが、どうだろう。

手塚治虫「火の鳥」や「ブッダ」は仏教的な世界観が描かれるが、物語の中では善行/悪行とその結果は必ずしも因果関係にない。むしろ残酷な偶然が物語を紡いでいく。それは、手塚が考えた現実世界の姿だっただろう。

大乗仏教の阿弥陀如来信仰は他力本願。すべての人が救われると教える。これもまた、大衆に生きる希望を与えるための方便だったのかもしれない。

旧約聖書の「ヨブ記」は公正世界仮説とは対極にある。人一倍信仰が厚かったヨブは、神によって本当にひどい目に遭わされるのだが、それも含めて信仰である、という認識に至る。古代に生きた人々にとっては、ひどい体験は不可抗力であって、自らの努力とは関係がない、というマインドセットが主流だったのではないだろうか。

古代は非公正的世界観が主流、だから(仏教などが)公正的世界観を強調することに意味があった。
これは納得のいく仮説ですね。

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