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「数学の物理的な局面に対する私の絶えず高まっていた興味がはっきりした形を取りはじめたのもM.I.Tにおいてだった。校舎はチャールズ河を見下し、いつに変らぬ美しいスカイラインが眺められる。河水の面はいつ眺めても楽しかった。数学者兼物理学者としての私には、それはまた別の意味を持っていた。絶えず移動するさざ波のかたまりを研究して、これを数学的に整理することはできないものだろうか。そもそも数学の最高の使命は無秩序の中に秩序を発見することではないのか。…こうして私は、自分が求めている数学の道具は自然を記述するのに適した道具であることを悟り、私は自然そのものの中で自己の数学研究の言葉と問題を探さねばならないのだということを知るようになった」16頁

「数学は概して青年の仕事である。それは若さと体力がある時にのみ完全に満しうる資格を要求する知的競技である。若い数学者のうちには才能のひらめきを示しながら1、2の有望な論文を発表した後、昨日のスポーツの英雄を取巻く忘却の淵と全く同じ境涯へおち込んでしまうものが多い。
 だが彗星の如く現われ活動の芽をふき出した途端、倦怠の生涯におち込んでしまうのを見るのは耐えられぬことである。数学者が線香花火のようでない一生を送るためには、彼は、最高の創造的能力に恵まれた短い春の季節を、生涯を投じても消化し切れない位の豊富さと魅力を備えた新しい分野と新しい問題の発見に献げるべきである。若い私を刺戟し、それを創始するため相当な努力を献げた問題が、60台になった今なお、私に最大の要求を加えて来る力を失っていないように思われるのは、私にとって幸いである」23頁

「交流の歴史の初期において、交流の発明を握っていたウェスチングハウス系の人々と、既に直流工学に多大の資金を投じていたゼネラル・エレクトリック系及びエディソン系の人々との間に王位争奪戦が行われた。この論争の一つの落し子としてニューヨーク州では交流を用いて犯罪者の死刑執行をすることとなった。これは、人々に交流の方がより危険だという誤った観念を抱かせて家庭で交流を使うのを厭がらせるため、立法者を通じて行われた取引の結果なのである。しかしながら間もなく電気工学における両派の争いはしずまった。というのはゼネラル・エレクトリックの方でもウェスチングハウス社と同様、交流が使えるようになったからである」45頁

「苦痛が数学的緊張となって現われたのか、数学的緊張が苦痛によって象徴されたのか、どちらとも言い切ることはできない。なぜなら両者は不可分の一体をなしていたからである。しかしながら後になってこのことを考えてみると、殆ど如何なる経験でも、まだばく然として脈絡のついていない未解決な数学的事態の仮の象徴の役割りを演じうることが分ってきた。私は、私を数学に駆りたてる主要な動機は、未解決な数学的不調和が与える不満や苦痛であることをこれまで以上にはっきりと知った。このような不調和感を解きほぐして半持続的な認識できる脈絡に還元してしまわないと、苦痛を脱して他の問題に移ってゆくことができないことを、私は益々意識するようになった。
 実際、有能な数学者を特色付ける他の何よりもまして適切な特徴があるとすれば、それは束の間の情緒的象徴を操ってこれから半持続的で思い出すことのできる言語を構成する能力であると思う。もしこうすることができなければ、彼の着想は、形式を与えられないままの形で保存するという極度の困難に耐えられずに蒸発してしまうであろう」53頁

「前成説は、物質の無限可分性に賛成するものであり、これから出てくる哲学的帰結は、特に大哲学者ライプニツによって熱心に研究された。
 ライプニツは…水の滴や同じく生命のみちあふれた血の滴から類推して世界を充実空間——真空は存在しない——と考えていた。すなわち彼は生物の間や生物の内部にある空間すべてが、より小さい大きさの生物で充されていると考えた。この考えから、更にライプニツは生命の無限不可分性、従って物質の連続性を仮定したのである。
 ライプニツは、いうまでもなく彼の時代の微視的観察と彼自身の哲学の内的な働らきとの両方によって生みだされたこの見解に導かれて、数学の新しい解釈に到達した。われわれが忘れてはならないことは、彼が微積分法の発明者の一人であり、今なおわれわれが使っている記号は彼が創めたものであるということである。彼によれば、時間と空間が無限に分割可能であるみのならず、時間と空間に分布している量は、時間と空間のあらゆる次元にわたって変化率を持っている。…ライプニツは、物理的世界の連続性を主張することによって、原子論に正面から反対する見解の代弁者となった」62-4頁

「今日の物理学の課題は、もうその本質がよくわかっている既存の理論をますます精巧に仕上げてゆくことにはないということである。今日の物理学は、まだ誰一人として真にすっきりと首尾一貫したものにすることができない多くの部分的な理論の集りである。現代の物理学者は、月水金は量子論を説き、火木土は万有引力の相対論を学ぶとは、うまく云ったものである。日曜日には、物理学者はそのどちらでもなくなり、神に向かって、誰かが——かなうことなら自分自身が——この2つの立場を和解せるように、と祈っているのである」😅 69頁

「ボーア兄弟にはしばしば会った。たしかニールス氏の部屋だったと思うが、この兄弟の一方の部屋に2人の子供時代の肖像があったのを憶えている。その顔にはどこか農民に似た面影があった。この農民の面影は成長するにつれて消えてしまったものらしい。その時のお客の一人にコペンハーゲン大学の古典文学の教授でたえず大きな黒い葉巻をふかしている婦人がいて、この兄弟の子供時代には、こんな出来の良くない2人の子供を持ったお母さんに友人が同情したものだという話を聞かせてくれた。ニールス・ボーア氏が科学上の業績によってデンマークの国民的英雄となり、コペンハーゲンの大醸造会社から寄付された宮殿のような家に住んでいることや、ハラルド・ボーア氏がデンマークの生んだ最大の数学者であったことを思うと、これは今でははなはだこっけいな話としか思えない」78頁

「ある日私は『ザ・ストランド』の中で『黄金づくり』とよばれる第一級のスリラー小説を読んだ。それは非常にもっともな科学と経済学を含めた科学小説であり、陰謀、追跡、逃亡などのはいったすぐれた筋をもっていた。ケンブリッジのトリニティ・カレッジのJ. B. S. ホールデーン教授が書いたものだった。その表紙に背の高い、体格のたくましいおでこの男の写真がのっていたが、その男は私が[ケンブリッジの]哲学図書館でしばしば見ていた男だった。
 私が図書館で次にホールデーンにあったとき、私は思いきって彼に話しかけ、自分を紹介し、彼の小説が立派であると述べた。しかし彼の小説にはほんのちょっとした欠点があったのでそれを指摘した。彼はアイスランド人と思われる人物にデンマーク人の名前をつかっていたのだった。
 ホールデーンは私のこのぶしつけな示唆を喜んでくれ、数週間後にオールド・チェスタートンの美しい自宅にわれわれを招いてくれた」105頁

「私たちがとても元気になって旅から帰ってきたとき、マーガレット[妻]は私をホールデーンの家へ連れて行った。私は彼らとブリッジ遊びをしたことを思い出す——家族対家族、男性対女性、あるいはユダヤ人対キリスト教徒という組合せで。われわれはまた非常によくしゃべり合う機会を得た。そして私はJ. B. S. ホールデーンほど会話に長じた人やいろいろな知識をもった人に会ったことはない。
…われわれはホールデーン一家にはしょっちゅう会いに行き、そして私は彼の家の芝生のそばを流れるカム川の支流へ彼と泳ぎに行くのが常だった。ホールデーンはパイプをくわえたまま泳いだものだ。彼にならって私は葉巻を吸い、いつもの習慣通り眼鏡をかけたまま泳いだ。川にボートを浮べている人たちから見ればわれわれは水の中を浮いたり沈んだりしている大きな水棲動物、いってみれば長いセイウチと短いセイウチのように見えたに違いない」106-7頁

「彼[レイモンド・ペイリー]は数学を一種のゲームとして自由自在に操つるすばらしいうでと、ほとんどどんな問題でも攻撃することのできる一大装備にまで積み上げられた実に多くのあの手この手を私にもたらしたが、数学を他の諸科学の中に正しく位置づけるという感覚はほとんど全くもたなかった。われわれが着手した多くの問題のなかに、これは私のくせなのだが、私は物理学的応用ばかりか工学的応用すら見出した。そして私のこのような感覚は、私が作る像と問題を解くために使う道具とをしばしば決定した。私が彼のやり方を学びたがっていたのと同様、ペイリーは私のやり方をしきりに学びたがっていた。しかし私の応用的観点がかれには容易にピンとこなかったし、彼がそれを十分スポーツマンにふさわしいものとみなしたとも思われない。私は数学というスポーツ(狩り)で、もし獲物を猟犬を使って追いつめることができないなら鉄砲で射ってしまうことによって、彼や私の他のイギリスの友達をビックリさせたに違いなのだ[ママ]。…
 ペイリーと私のちがいは、偉大でありながらも伝統的なイギリスの古典学者と私の父とのちがいと本質的には同じであった。…私はイギリスの学者気質を尊敬し理解はするが、私の本質は大陸的である」111頁

「数日間暑い8月の天候の中で、私は東大の人たちに会い、2、3回話をした。大学の学問的水準は確かに高かったが、同時にそのころの東大は一国の最高の大学であるという確信を持つ大学が染まりやすいあのかたくなさに毒され始めていた。東大の教授たちは、よりおとった大学の同僚たちをいさゝか見下していた。
 池原[止戈夫]氏は大阪までわれわれに同行した。大阪は東京よりもさらにむし暑いところだった。大阪大学の数学グループは非常に私の好みにあった。日本の最高の数学者の多く、例えば世界のどこへ出してもひけをとらない吉田[耕作]、角谷[静夫]らはこのグループから出たのだ。
 われわれは大阪城を訪れた。この巨大な建物以上に頑丈さと難攻不落さを思わせる建築物はヨーロッパにはない。後方に傾斜したどっしりした石の城壁は今でも一軍を支えることができよう。この城はブシ(武士)やローニン(浪人)の昔の日本のことを石によって物語っているように思われた」122-3頁

「中国人は、その弟子である日本人と同じく、多くの西洋の風景画を毒している感傷主義のいやみを帯びていない情緒と趣味をみせる。仏教徒にとっては、神というものは自然と別なものではなく、森羅万象に現われるものなのだ。だから自然はその存在そのものの一部として神そのものをも含み、外部から世界に押しつけられた準人間的人間としての神を含んでいるのではない」126頁

「学生生活は非常に乱されていた。学生は何ヵ月もストライキをつゞけた。彼らは日本人の侵入と自国民の無気力さに抗議するために市中をデモ行進した。駅の関門で入ることが許されないときには、やせた少女がその門の下をくぐって門を開けた。市内では警察が学生に対してこん棒や消化ホースを使い、病院や刑務所は学生で一ぱいであった。しかし学生の多くは北京の有力な家柄の出身だったので親たちはうまく妥協の手をうった」130頁

「中国の友人たちの中には近代的な意味に於ける科学的懐疑主義者たちがいた。キリスト教徒は何人かいたが、道教や仏教の信者といえるような人はほとんど一人もいなかった。しかしほとんどすべての人に共通していたことは、何か特殊な人にではなく世界全体に対する愛情をもっているということだった。これは全く仏教徒に特徴的なことである。これに劣らず中国の特徴を示すものは、道教の教えのかなり風変りな無形の体系に附随した、軽やかな快楽主義的なものの考え方である。
 私の知り合いになったすべての立派な中国人は孔子の伝統をうけついでいた。そしてキリスト教徒となっても相変らず孔子の徒であった。というのは中国人は諸説融合という宗教的伝統をもっており、彼らにとっては一つの宗教を受けいれることは他の宗教をこばむことを意味しないのだ。宗教的伝統を何によらず尊重するすべての中国人の脊後には、紳士兼学者兼政治家という孔子的概念、つまりユーモア感でやわらげられ、社会の福祉を目標とし、尊厳な学問を手段としている、いわば厳粛簡素で礼節正しい人物という概念がひそんでいる」131頁→

(承前)「悪に至る道は幾つもある。しかしまた有徳の生活が発生しうる源もたくさんあるのだ。孔子的生活というものは有徳の生活の非常に興味深くて魅力ある源であり、感受性のある聡明な宣教師なら、ほとんどみな中国から帰る時にはもう孔子の見解を深く理解し、それに共感せずにはいられない。中国は中国を改宗させようとする者を改宗させる」131-2頁

「共同研究というこの習慣はほとんど数学者と数理物理学者だけにしかない財産である。他の分野の大概の学者は単に実験室に依存しているためにだけでなく、それぞれ独自の材料と装置をもった非常に特殊な研究所に依存しているということのために、共同研究ができない。歴史や言語学の学者となると、あまりにも異論の多い分野で仕事をしているので、共同の論文などというものは、異常な偶然によってたまたま同じ一般的見解のみならず細かい点にわたってまで同一の意見を共有している場合でない限り、ほとんど不可能である[😅]。文学や音楽のような芸術では、一群の芸術家が真に創造的な作品をつくるに欠くべからざる個人的な観点の一致に到達することを可能にするような十分な共通の基盤が存在しない。しかしながら数学は、その学問の美的な面を特徴づけている観点に個人的個性というものが実在するにもかゝわらず、意見の相違を非個人的なものに基づいて判定し解消させて共同研究を可能にするには足りるほどの事実的な学問である」134頁

「船の中では…私はチェスも少しやった。この旅で私はわれわれのチェスと違った日本のチェスの明らかな名手であった日本武官の一人にヨーロッパ式チェスを教えた。日本将棋では駒はくさびの形をしており、色でなくその向きが駒の所属を示す。日本将棋では分捕った駒を使用してもいゝということは注目に価する——この事実は朝鮮戦争を考える場合に重要性なきにしもあらずという気がする。さもなければ朝鮮側の捕虜になった者がまだ生き駒として敵方に役立つことや、わが方の捕虜になったものがひっくり返って敵方に不利な駒になることなどは解釈がつかない。とにかく私のこの日本人の友人は2、3回で西洋将棋をものにしたうえ私を絶対確実に打負かすまで上達した」136頁

「ホールデーンも私もスペインにおける自由が新たに打撃を受けたことを悲しみ気が滅入っていた。後にホールデーンはスペイン共和国側に奉仕を志願しスペインで戦うために英国をたった。スペインで彼は反フランコ諸政党の大部分の善意に伴う[?]話にならぬ非能率に驚いた。そして彼はますます共産党にかたむき始めた。彼にいわせると共産党は少くともある意図とある政策をもっていた。
 イギリスの共産党はやがて彼を自分たちの最大の宝の一つと認めた。彼は、ルイセンコの教理的な生物学とチェコスロヴァキヤの裁判とによって共産主義とたもとを分つまで、ずっとデーリー・ワーカー紙の編集者のイスについていた。
 しかしながらこの共産主義との政治的和解はまだのちのことだった」138頁

「もし私が、科学における一人前の職人としてまた多少とも独り立ちの親方としての私の生涯に、何か特権的な境界点をとろうとするなら、私はそれを中国旅行の年1935年に選ぶべきであろう」139頁

「42才で中国から帰ったとき、すでに私はもう若くはないと感じはじめていた。長い間続いた苦しい生活の重荷が私にこたえはじめたのだった。私は妻の勧めに従って、内科から精神分析に移った友人の医者の診断をうけた。
 こういう状況の下では、私が精神分析の助力を必要としたことは驚くにあたらない。精神分析の理論的な体系には深い疑いをもっていたにもかかわらず、私はもし頼ることのできるしかるべき人を知っていたならば、とっくの昔にこれを求めていたことだろう。私が中国にいた間、しばしば精神分析を受けてみようとしてはたさなかった。…
 私はすでに幼いときから精神病学の話を読み、シャルコーやジャネの著作のいくつかに親しんでいた。私の心の中に、明るみにひき出されることに非常に抵抗する暗い隙間とかくされた衝動があることを、私はフロイドによって知るずっと前に自分の経験から確信していた。私の哲学的研究によって、無意識という概念は私には珍らしいものではなくなっていた。そして私は、この無意識がかくす惨酷でほとんど話すにたえない衝動と並んで、それらの衝動をうまくとりつくろって合理化の層の下にうめてしまおうとするほとんど抵抗しがたい傾向があるのに気づいていた」144頁→

(承前)「こうして私がフロイドと彼の思想を学んだときには、私は彼の思想の中に真の正しさをもった新しいものが含まれていることをみるだけの下地ができていた。にもかかわらず、私は精神病学者自身による内的な合理づけには反撥を感じた。彼らの説明は人間の問題全体に対するものも私の場合に対するものも、あまりにも表面的であった。彼らのやったことの多くが治療上正当だったことを決して否定しはしないが、私には精神分析の学問的根拠はまだ人を十分に納得させるだけの信服性と科学的体系に達しているとは思えなかった。さらに、精神分析を受ける人にとって、素直に服従することと経済的な犠牲を払うこととが必要であるという鉄則は、精神分析医に仕事の上でも経済的にもあまりに利益がありすぎて彼らが十分客観的だとはみえないようにしていると思われた。
 フロイド自身はあきらかに、彼が後になっておちいったあの古典的な受動的な態度に自らをおくことなく、自分の心を広く精神分析の対象とした。そしてまた私は私自身の中に外から課せられたものでない精神分析的意識の萠芽をみていた。したがって、私は言われる通りに自分を十分な服従の状態にゆだねることはほとんどできなかった」144-5頁→

(承前)「私はまた、正統派の精神分析医がやる人格の判定や精神分析がうまくゆけばこうなるといって示す目標をすなおに承認することができなかった。私は、満足はもちろん幸福でさえ私の人生の第一の目的だと考えたことはなかった。そして私は、因習的な精神分析医の目的の一つは、彼の患者を満足した牝牛のようなものに改造することにあるのではないかと心配しはじめた[😅]。
 私は精神分析用の長椅子に横になって型どおりの精神分析式の報告をやり、さらに私自身を動かす動機や私の内的な価値観について私が洞察できるかぎりのことを述べて私の報告を補おうと試みた。私は分析者に対して私にとり創造的な仕事への衝動がいかに深いものであるか、そして、その仕事における成功の満足がいかに美的性質のものであるかを知らせた。また、文学、とくに詩に対する私の趣味がどんなであるかを告た。ハイネの詩、とくに彼の『論争』と『平和の王女』のなかに、ユダヤ人の宗教的な精神の高まりを表現した章句がいくつかあるが、私はそれを涙なしに朗読することはできない。私はさらに分析者に向って、ハイネが日常生活の惰落と卑俗との意識から突然神の栄光と軽蔑されたユダヤ人の尊厳とを宣言する精神的高揚へ移行する急転がいかに私の心に深い畏怖の念を生みだすかを語った」145頁→

(承前)「これらすべてのことを私の精神分析医は、私の下意識の真の深みからのものではないと斥けた。彼にとっては、それらのことは、ただ私が意識の水準で学んだものであり、うろ覚えの夢から引き出されたほんのわずかな残りかすのヒントに匹敵するほどの重要性ももたないものとしか映らなかった。たとえ、それらは意識的なものであるにせよ、それらが私を動かす力は、意識の表面層からやってきたものではなかった。
 私の分析者はそれらを精神分析学の領域に属さない一種の密輸入品とみなしたのである。彼はそれらをぜんぜん考慮しなかった。そして私は誤解され誤伝されたという深い感情をのこした。彼は私を責めて、抵抗と呼ばれる精神病患者の基本的な罪を犯しているといった。私はたしかに抵抗したが、この抵抗という事実こそは、私がかつて経験した多くのものと私の精神構造の底にひそむ多くのものをつかむ手掛りであった。ついに私を動かしているものが何であるかをさほど知らないにちがいない分析者から何ものかをえようと無駄な努力を半年続けた後、私は去った」145頁→

(承前)「後に私は、夢の記録にそれほどたよらずに私に人間として親密になることにもっと大きな努力を払った別の精神分析医たちのところへいった。これらのもっと世なれた同情深い友人たちはあの長椅子の儀式をさほど盲信していない。彼らも私の夢と葛藤を記録するが、公式的な正統派フロイド学徒が扱う以上に私を一個の人間として扱う。彼らにとっては精神分析医の用いる長椅子はプロクルステスの寝台ではない。彼らは、何でもかでも[ママ]すぐに抵抗だといってきめつけてしまうようなことはせずに、私が彼らと違うような意見をもつことをみとめてくれる。
 もちろん、私は私の注意を内面的な問題に限るようなことはできなかったし、私の心をむきだしにするためにあらゆる努力を注ぐようなこともできなかった」145-6頁

「数学者がその先生の娘と結婚することは学者の世界では典型的なものであり、ヨーロッパでもアメリカでも多くみられる。したがって数学的才能の遺伝学は特殊な型をとるいう説が生れた——つまり、父親から息子へ受けつがれるものではなく、義理の父親から義理の息子に受けつがれるものである」😅 146-7頁

「私の中国に対する態度はスペインの王党派(共和国側)をアメリカが同様に支持したことによって勢をえた。ここではハーヴァード大学の生理学科のキャノン教授が中心人物だった。彼はそのころ疑いもなくアメリカの大科学者であったし、彼は数年前にスペインで講義をしたことがあった。
 スペインは近代になってからは大科学者には恵まれてない国であるが、そこで重要な研究が生れた一つの分野は神経系の生理学で、そこにはもちろんキャノン教授自身が大いに関係した。キャノンがスペインで学問の世界がこうして復活することに非常な関心を寄せたのは不思議ではないし、彼が、スペインの王党派にアメリカの援助を呼び集めることを自己の義務としたのは当然である。したがって彼は、どんなところからどんな援助が来てもこれを拒絶する立場にはなかったし、この援助のかなりの部分が共産主義者のグループからもたらされたことは驚くに足りない。このためにキャノンに対してとかくの噂が立てられたが、キャノンは噂をたてられたからといってびっくりしてやめることのできぬ誠実で真直ぐな男であった。キャノンが王党派を支持するのに私も加わった。そしてこれは中国の問題と関連して当然なすべきことだと思われた」150頁

チリのマトゥラーナ&バレーラ(オートポイエーシス)とも系譜関係が?

「ドイツからの亡命者はしばらくの間、急に多くなったが、間もなく、パッタリとやんでしまった。これらの最後のわずかな移住者たちは、私には、自然に移住してきた人たちと同じほど道徳的に高く評価できる人ばかりではないように思われた。これらブドウ酒の最後のしぼり汁のような人たち[😅]のうちには、われわれにナチの進撃の抵抗しうべからざる勢いを教えこもうとして、やっきになっているように見える人が一人ならずいた。もし、彼らが宣伝家として雇われたのだったとしても、彼らの熱意はこれ以上ではありえなかったろう。結局われわれにはっきりわかったことは、教養ある立派な男女で迫害を受けて去り、われわれの知的生活を豊かにしてくれた多数の人たち以外に、ナチスに入れてもらえなかったのが主な理由でナチスに反対した人々もあったということである」155頁

「ロシヤの農民は二進法と呼ばれるこの種の方法と同様なものを加減乗除に使っている。これは十進法にくらべて、大きな長所がある。十進法のかけ算の九九にあたるものはこの場合には1掛ける1は1ということだけになってしまう」157頁

ロシア語も齧ったけど、全然出てこんかったですね

「科学の仕事においては、研究者は与えられた問題が解けるというだけでは十分とはいえない。自分が解いた問題をあらゆる面から調べて、自分はいったいどういう問題を解いたのかを見つけ出さなければならない。ある問題を解くさいに、自分がそれとの関連では頭に描いてさえいなかった問題をいつのまにか解いていた、ということがしばしばあるのである」169頁

「われわれはネガティブ・フィード・バックを軍艦の砲塔への入力を制御するのに使っている。…
…われわれは自問した。——ネガティブ・フィード・バック装置には特異的な病理が認められるのではあるまいか、と。…
 フィード・バックをもつ系は、それをもたない系より負荷の変化に左右されることが少いばかりではない。この左右される度合は、運動を大きくフィード・バックしてやればやるほど、小さくなる。いいかえれば、フィード・バックに大きな増幅を加えてやれば、やるほど、負荷の変化に左右されなくなる。しかし、このようなやり方で動作を改善することは、いくらでもやれるわけではない。フィード・バックの増幅の大きさがある限度を越すと、装置は自己発振を起し、動作がむちゃくちゃになり、装置は負荷に左右されないどころか、かえって負荷のまにまにもてあそばれるようになる。そこでわれわれは、もし人体の調節もまたフィード・バックに依存しているなら、フィード・バックが過大なために起るある種の病的状態があるだろうと予想した。その病的状態の下では、人体は調節のとれた働きを失って、だんだん烈しくなる振動状態におちいり、この振動は人体がこわれるか少くともその運動の根本的な仕方が大きく変化するまでは止まらないはずと思われた」174-5頁

「われわれがもちだしたのは次のような特殊の質問だった。神経病のなかに患者が静止しているときには全くふるえを起さないが、水のはいったコップを取り上げるような動作をしようとすると、しだいにはげしくふるえだし、結局やろうとすることが果せなくなり、例えば水をこぼしてしまう、というような失調症が知られていないだろうか。
 ローゼンブルース博士の答えはこうだった。そういう病理的状態はよく知られており、インテンション・トレマー(意図振顫)と呼ばれている。そして非常に多くの場合、障害のおこっている場所は小脳に存在し、小脳は人体の組織的な筋肉活動の様式と強さを支配しているのである。フィード・バックが人体の調節に大きな役割を果たしているのではないかというわれわれの想像は、フィード・バックの病理が、秩序正しい組織的な人体行動に生ずる既知の一定の型の病理ときわめてよく似ている、という確固とした事実によって確かめられた」175頁

「振顫(しんせん)」は今日では「振戦」と当て字にするのが普通なようで、「顫」の字を拾ってくるのに苦労しました😅

「計量経済学は次の2つの段階を踏まないうちは、現在以上にはあまり発展しないだろう。その一つは、需要とか在庫高とか等々という計量経済学が扱う量の測定は、それらの量の関係を扱う力学と同程度の精度と厳密さをもつ基準に従わなければならないということである。もう一つは、われわれの取扱う量は本来統計的な性格のもので、完全に精密な量ではないということを、最初から認識して、ギッブズ流の取り扱い法に入ってゆかねばならないということである」180頁

「計算機の研究に対する私の興味は、真ちゅうや銅やガラスや鋼でつくられる計算機の現在過去将来の流れなどをはるかにこえたところへ私を押し流してしまった。大脳と神経系もまた、計算機としての重要な特性を備えている。…神経系の全か無か(オール・オア・ナン)の法則…
…神経線維とフリップ・フロップ回路は2つの、しかもただ2つの、平衡状態をもっている。この相似は非常に密接で、線維の端に通信が達するずっと以前に、線維は刺戟の強さという形ではなく刺戟の数の形で情報を運んでいるという点まで相似である。
 神経線維はスイッチ装置であるばかりでなく、他のスイッチ装置に接続する装置でもある」186頁

この辺から、サイバネティクスの着想に向かっていったんすかねえ

「日常生活に、フィード・バック現象をあまりによく使っているから、かえって、しごく簡単な動作のなかにもひそむフィード・バックの本性に気づかないことが多い。…人間のからだのなかの平衡は、生命現象のなかにみられる平衡の大部分と同じように、静的なものでなく、破壊をもたらすようなどんな力に対しても積極的に抵抗する過程が、いつも相互に作用している結果である。われわれの直立していること、歩くこと、これらはみな重力に対抗して、いつもジュウジュツ(柔術)[!!]をやっているようなものであり、また生命というのは間断なく死を相手にレスリングをやっているようなものだ。
 この点から私は、神経系を多くの点で一種の計算機と考えざるをえなかった…
…神経生理学者と心理学者が使う<記憶>という言葉が…さまざまな分野のすべてにわたって通用する便利な言葉であることに、みんなが気づいた。また<フィード・バック>という言葉もみつけた。…情報を測定するのには、イエスかノーの数によって測定するのが便利だということにみんなが気づき、いつのまにか、この情報単位として、<ビット>という言葉がきまった。この会合を私は、新科学サイバネティックスすなわち、機械及び生体における通信(コミュニケーション)と制御(コントロール)の理論の誕生地とみなしたい187-8

「私が[メキシコから]アメリカに帰ってみると、アルツーロと私が共同でやってきた種類の研究、つまり、神経系の研究を一種の通信系の問題とみて近代的数学技術を応用することが、非常に活発な関心をひきおこしていた。同僚の一人がニュー・ヨークのメイシー財団を説きふせて、この問題に関するいくつもの討論会を組織した。これは数年間つづいた。ここには、精神病学者、社会学者、人類学者などが、神経生理学者、数学者、通信専門家、計算機設計技師などと共に集って、考え方の共通基盤が発見できないかどうかを論じた。
 討論は興味深いものだったし、事実われわれは、多かれ少なかれ、互いに他の人が使っている言葉でものをいうことを学びとったのだが、完全に理解するには大きな障害があった。このようなセマンティックな(語義的な)困難は、次のようなことから発するものであった。つまり、全般的にいって、数学のもっている精密さの代りになるような言語がないこと、また、社会科学の用語のかなり大きな部分は、数学的な言葉で表現する方法がまだわかっていないものごとを言うのに専ら使われており、しかもそうならざるをえない、ということである」200頁→

(承前)「実際、その時私は、他の多くの時と同じように気がついたのだが、数学者が、数学ほどの精密さをもたぬ分野の科学者たちの助言者の役割をつとめるさいに、しなければならぬ主なことの一つは、こういう人たちが数学に対してもっているあんまり大きな期待をくじくことである。…こうして、通信の問題全体にわたって——それが社会的通信であれ、生理的通信であれ、機械的通信であれ——同一の考え方が通用することを十分確信すると同時に、こういう数学以外の分野で数学がなしうることを過大評価することに水をぶっかけたのは、生理学者や社会学者でなくて、数学者自身だった」200頁

「そもそものはじめから私は神経系と数字式計算機との間の相似に心をうたれた。私は、この相似関係はあらゆる点で成りたつものであるといおうとするのでもなく、また神経系の性質は、数字式計算機と同じだと言えばそれで一切がつくせるのだと主張するのでもない。私はただ、神経系のふるまいのある種のものは、数字式計算機のそれと密接に似ているといいたいのである。
 神経系は、たしかに、衝撃を伝達するいろいろな要素からなる複雑な網である。…神経線維は一種の論理機械であって、前のいくつかの決定の結果に基いて、その次の一つの決定がなされるようになっているのである。これは本質的に、計算機械のなかの一個の要素の行う操作様式である。このような基本的な相似性のほかに、補助的な相似点もある。それは記憶、学習等々のような現象に関するものである」204頁→

(承前)「最近私の注意をひいている医学的な問題がもう一つある。ウォルター・キャノンは、クロード・ベルナールの昔にかえって、人間の健康、いや肉体の存在そのものが、ホメオスタティック・プロセス(ホメオスタシス的過程)と呼ばれるものに依存していることを強調した。…生命のみかけ上の平衡状態というものは、能動的な平衡であり、このなかでは何かが基準からはずれると、そのはずれがそれと逆向きの反応をひき起こすようになっている。これは、われわれのいうネガティブ・フィード・バックの性質をもつものである。
 したがって、身体の調子が悪くなった時には、患者のからだの中でフィード・バック仕掛けが内部的にこわれているにちがいないのであり、その失調を数学的に記述したものは、フィード・バック仕掛の性質とその故障の性質とを表示するはずである。…私は、このホメオスタシスの病気という概念は、医学の多くの分野できっと有用なものになるだろうと感じている」204-5頁→

(承前)「従来は医学ではものごとを局所的に考える傾向が非常に強かった。この傾向は脳に関しては特にいえる。大脳皮質つまり大脳両半球の表面のほとんどの領域に対しても、一つ一つ別々な機能が発見されるか仮定されてきた。しかし、ものごとを局所的につきつめることを強調する傾向は、有機体の全般的な問題を、局所的に限定できる原子的現象より軽くみさせることになっていた。
 私たちの制御装置の研究は、このような局所現象がどのように組み立てられて、脳全体——いや実は、人体全体——にわたる大きな過程をつくりあげているかについて、よりよい見通しを与えつつあるように思われる。健康体のはたらきについても、こういう綜合的な過程が理解されなければならない。なぜなら、病理的状態では、この綜合的な過程が、個々の部分の故障に帰着させることができないような仕方でこわれることがあるからである」204-5頁

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(承前)「私はウィラード・ギッブズの仕事へ追いもどされた。すなわち、世界を一つの孤立した(隔離された)現象としてみるのではなく、あらゆる可能な現象にわたる確率分布をもった統計集団のなかの多くの現象の一つとして考えることである。私は、因果関係というものを、有るか無いか(因果の有無)という形で存在するものというよりは、むしろ多いか少いか(因果の多少)という形で存在する或るものとして考えざるをえなくなった。
 サイバネティックスに関する私のアイディアの全背景は私の初期の仕事の記録の中に存している。私は通信の理論に興味をもっていたので、情報の理論、特に、一つの系のある部分について知識をえた場合に残りの部分についてえられる不完全な情報を扱う理論を、どうしても考えるようになった。…不規則ということに対する新しい概念と宇宙の本質的な不規則性についての新しい概念を構成した。…私は神経系の複雑なメカニズムに或る程度接触していたので、われわれをめぐる世界は神経系というものを通じてのみ近づくことができ、またこの世界に関するわれわれの情報は神経系が伝播しうる限られた情報の範囲を出ないということを知っていた」229-30頁

「われわれは組織の解体の大奔流にさからって泳いでいる。そしてこの奔流は万有を熱力学の第2法則が示す熱の死滅すなわち万物の平衡と斉一の状態へ向って押し流している。マクスウェルやボルツマンやギッブズが物理学においてこの熱の死滅という言葉で指したものはキールケゴールの倫理学のなかにその対応物をもつ。すなわちキールケゴールは、人間は混沌たる道徳世界に住んでいると指摘したので有る。この混とん[ママ]世界の中で、われわれのなすべき第一の仕事は自由意思による秩序と制度(体系)の飛び領地をつくることである。この飛び領地は、ひとたび樹立されれば、それ自身のはずみによっていつまでもそこに留まってはいない。チェスの赤のクィーンのように、われわれはできるだけ早く走ることなしに今いるところにとどまっていることはできない」230-1頁

赤の女王!! ここの認識はフォン・ベルタランフィーにそっくり

「通信は決して人類に限られたものではない。なぜなら、それは程度の差はあるが、少くとも、哺乳動物や、鳥や蟻や蜜蜂にも見られるからである。しかし…さまざまな通信手段があるとはいえ、人間の言語は動物のものよりはるかに発達しており、はるかに融通のきくものであり、そこには全く異った種類の問題が提出されている。
…言語の各種の面に割当てられていると思われる脳の領域が非常に広いことは、高度に発達した通信手段が人間にとって圧倒的に重要なものであることを立証している。…
 通信は社会のセメントである。…社会をして社会たらしめている本質は、より大きな有機体の中でこれらの個人が行う親密な相互作用である。社会はそれ自身の記憶をもっている。この記憶はその社会に属するどの個人の記憶よりずっと永続的であり、ずっと多様である」231-2頁

「社会学と人類学は主としてコミュニケーションの科学であり。したがってサイバネティックスという一般部門に属する。社会学のうちで、経済学と呼ばれる一分科は、他の諸分科と比べて価値の数量的な取り扱いがよほどやりやすい点で特色があるが、この分科は社会学自体のサイバネティックス的性格のために、やはりサイバネティックスに属する。これら総べての分野は、その多くがまだ数量的な取扱いの点で精密さが足りないためサイバネティックスという大きな学問の数学的道具を十分利用できないとはいえ、サイバネティックスの一般的思考様式を共にしている。
 サイバネティックスは、これら既成の諸科学において果す機能のほかに、科学そのものに対する考え方、とくに、科学方法論および認識論の分野に必ず影響をあたえるはずである。先ず第一に、サイバネティックスと私の初期の研究にはっきりあらわれている統計的観点は、秩序または規則性というものに対する新しい見方をとらざるをえなくさせる。…かりにわれわれが因果関係の大きさというものをはかることができるとするなら…それができるのは、宇宙が完全にぴちっとした構造でなく、さまざまな領域で小さな変動がありうるような構造であるからこそのことである」232-3頁

「サイバネティックスの立場からみれば、世界は一種の有機体であり、ある面を変化させるためにはあらゆる面の同一性をすっかり破ってしまわねばならないというほどぴっちり結合されたものでもなければ、任意の一つのことが他のどんなこととも同じくらいやすやすと起るというほどゆるく結ばれたものでもない。それは、ニュートン的物理学像の剛性を欠くとともに、真に新しいものは何も起り得ない熱の死滅すなわちエントロピー極大状態の全く筋目のない流動性をも欠く世界である。それは過程の世界である。しかも、過程が到達する終局の死の平衡のそれでもなく、ライプニツのそれのような予め定められた調和によってあらゆることが前もって決定された過程の世界でもない。
…知識は生命の一つの面である。そして生命はいやしくも説明さるべきものであるならば、われわれが生きている間に説明されねばならない。生命とは、永遠の形相のもとにおける存在の過程ではなく、むしろ個体とその環境との相互作用である」233頁

「私はキールケゴールとその感化をうけた著作者たちのペシミズムに積極的な或るものを加えることができたと思う。それらの著作者たちの中で、もっとも重要なのは実存主義者である。私は、生存の陰うつを、決してポリアンナ的(盲目的)な楽天主義の哲学によって置換えたりはしなかった。だが少くとも私は、実存主義の諸前提とかけはなれてはいない私の前提が、宇宙とその中でのわれわれの人生とに対する肯定的な態度と矛盾しないことを確信してきた」234頁

「一部は父自身のものの見方により、一部は父が私にほどこしたしつけによって、私は理論的なものと実際的なものとを非常によく結びつけて考える力を与えられた。父は言語学者だったが、いろいろな言語の発達は、互いにほとんど隔離された生物が生長してゆくような形のものではなく、歴史的ないろいろの力の相互作用の一つの現われであると考えていた。彼にとっては、言語学は文化史を研究する一つの道具にすぎず、ちょうど鍬が考古学者にとって道具であるのと同じようなものだった。言語学の研究をやっても形式的なものや抽象的なものでは満足できなかった父の息子であってみれば、私が物理学に真に触れあったことのない数学者に特有な薄っぺらな数学観では満足できないのも少しもふしぎではない」256頁

訳者あとがき「ウィーナーの見解は、量子力学で公認のハイゼンベルクの不確定性原理に基づく不確定性と、物理・生物・社会現象の巨視的観測の不可避的非精密性とを混同して統計という観点から一元化しようとしている傾向がみられるが、現代物理学の最新の進歩は、本書にも若干言及されている彼の構想を、量子力学に対する無理解からくるといって否定しきれない段階に達しつつあるように思われる。他方、遺伝学に対しては、彼は直接には本書と『人間機械論』でちょっとふれているだけだが、本書からもわかるように、親友J. B. S. ホールデンの影響が大きいようで、いわば正統派である。異端のルイセンコとウィーナーの見解のちがいは極めて深刻であると同時に。サイバネティックスは遺伝子遺伝学を根本的に乗り越える可能性を蔵していることが本書からもうかがえる。…
 訳者あとがきに乗じて著者に対して一見不遜な言辞を弄したが…」😅 267-8頁

この箇所以外にも、「小心翼々たる凡俗なサラリーマンの人生」「決して新奇ではない凡俗な科学思想」など、びっくりするほど辛口な訳者あとがきでした😅😅😅

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