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そうそう、そういえば今日トーハクに行ったら、高村光雲と高村光太郎の親子の作品が同じ部屋に展示されていましてね。
今髪を乾すときの音読材料の高村光太郎の中に彫刻論みたいなものがあって、父はこういうところを大切にしていた、でも自分はこういうのが良いと思う…みたいなのがけっこう書かれているのです。どちらの作品も過去に目にしたことはあったものの、改めて目の前に並べてみて、ここがその点なのかな?そういうとこに気をつけてるとこうなるのか…みたいな新しい見方ができて面白かったです。

よく行く近代美術館は、どうやら光雲の所蔵がないのかもしれなくて(一応近代ではあるが、当時彫刻がまだ芸術として成立しておらず光雲も仏師の弟子だったので、かなり散逸もあるらしいし、芸術彫刻の作品自体も多くはないらしい)教科書にも載ってる「老猿」はトーハクが所蔵しています。
一方の光太郎の大きめの作である「手」は近美の所蔵で、これはロダンの影響を大きく受けた後のもので、私の中ではこれが光太郎の印象として強い。彫刻論を読んでいてもこれが光太郎が目指したものだろうなと。ただ面白いのは(ちょっとだけ続く)

トーハクで今出てる光太郎が「老人の首」「鯰」「魴鮄(ホウボウ)」なんだけども、これがよりにもよってなチョイスで。

まず老人の首。実は光雲が人の顔をつくるのが苦手で、光太郎が代わりにやってることがあったらしくて「半ば父の意志」で「自分勝手に作った首はそれに較べると僅か」だそうで、さてこの老人の首は光太郎らしいものと考えても良いのだろうか、とか。

鯰と魴鮄は随筆に「」付きで言及がある作品名(同じテーマでたくさんあるとかではないらしい)で、鯰は【困窮している知人に寄付したらその知人の千葉のパトロンが買った】とあって、なんともドラマが。そしてなんとホウボウに至っては、本人も自信作の1つだったようですが、昭和20年時点で「行方不明」と本人が宣っている作品なのです!(厳密には途中まで分かっててその後どうしたか知らないみたいな話)

トーハクに置かれてるこの3作品はどれも「手」のロダン感はないので、光雲と見比べてもそこまでダイナミックな違いを感じにくいかもしれない。老猿がでかいのに鯰やホウボウは小さいし。でも読んで見比べてってできるのはすごく贅沢な話だなと、よく知っている「手」も脳内に浮かべながらニヤニヤしてきました。楽しかった。

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