杣道 さんがブースト

赤羽の町中華で飲りました。
明日から東京での新生活がスタートです。

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ほどほどの中産階級的消費生活を送れているがために、ちいかわたちの間に革命の機運が高まらない!労働者としてもアトム化されているため、鎧さんたちへの対抗的連帯も形成されない!

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ちいかわたちは共同体自治を志向したり社会運動をやったりすることはなく、管理された短期派遣労働と消費生活のなかにだけ留まり続けているのでR(嵐山)

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「『好きなものは好き!』と 言えるきもち 抱きしめてたい」的なビジョンで何が悪いの?というのが、世界の現状である。

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ハイカルチャーともコンビニエンスストアとも違う「B級」、というアイロニカルな「サブカル」戦略は、90年代終わりごろには既に、センス・エリート的な選民意識、硬直しタコツボ化したイデオロギーになってしまっていたと思う。ゼロ年代VVの安っぽさ・俗っぽさはむしろ、そうした硬直化を図らずも回避できていた=図らずも「B級」性を維持できてしまっていたというのが(笑)、自分の実感。そしてゼロ年代というのは、センス・エリート的サブカルチャーが衰弱していった時期でもあった(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』は、そういう風景を描写した本としても読める)。で、2010年代にはしかし、VV的「B級」もいよいよ耐用年数が切れた、ということなんだろう。たぶん。

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「時代が流れ、SNSを通じて人々の好みが多様化した現在、もはや「メイン」や「A級」という考え方自体が、ほぼ消滅してしまった」=情報環境の変化でメイン・サブみたいな構造が成立し難くなった、というのはたしかにそうなんだけど、そこで「B級である矜持を持とう」みたいな70~80年代サブカルチャー的アイロニーが無効化されていったことこそが重要という気がする。押しつけがましい選民意識と言っても、しかしそこで何故「B級」が志向されたのかが伝わらなくなっていったというか。本当の選民意識なら、別にハイカルチャーで良かったわけでね。問題は「多様化」という位相だけにあるわけではない。

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「B級である矜持を持とう」的なアイロニカルな感覚・戦略はゼロ年代VVの店頭には既に感じられなかったし、あの頃VVに通っていた若者たちは、体系的知識の圧や選民意識みたいなものをさほど気にしていなかったように思う。菊地敬一はハイ・カルチャーに対してのサブ・カルチャー(キャンプ、バッドテイストなもの含む)を志向していたんだと思うけど、そういう対立構造自体が、ゼロ年代には既に理解しづらいものになっていた。例えば80年代の戸川純と、ゼロ年代の椎名林檎を見比べるだけでも見えてくるものがある。で、自分はそういう「アイロニーを理解できなくなったゼロ年代的サブカル」が、その危うさ含め結構好きだったんですね。そこにある無邪気な感覚が、選民意識とは違う何かを育む可能性を持っているように思えていた。ただ、この無邪気さがいつかベタな政治に遭遇したとき、洒落にならなくなるだろうとも思ってたけど。そして椎名林檎のその後の軌跡が、その具体例のひとつになったんだけど。

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ポスト・サブカル焼け跡派のあたくしとしても、いろいろ思うところがあるでござる。
ただなんというか、VVが提案していた「サブカル」って、世代によっても受け止められ方がたぶんかなり違うような。ぼくは84年生まれで、ゼロ年代半ばぐらいに一番VVに行ってたけど、当時VV的「サブカル」って既に半笑いな感じで受け止められていたというか。本当にハードコアな人は行かない店というか。自分は当時「アンチ選民主義!汎用化されたチープ・サブカルがむしろ大切!」と思ってたので、VV的な安っぽさが好きだったんだけど。
「「サブカル」という言葉の輪郭が曖昧になるにつれて、その空間の演出も曖昧になってしまう」というのはたしかにそうだと思うけど、「ヴィレヴァンにはどことなく「選民意識」みたいなものが流れている」というのは、自分の実感・体感とは結構ズレるなあ……。

ヴィレヴァンが知らぬ間にマズいことになってた 「遊べる本屋」はなぜ魅力を失ってしまったのか
谷頭 和希
2024/01/18
toyokeizai.net/articles/-/7284

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自分の生活圏の知り合いに限ればいまだにXをやってる人ってもう一人もいないので(みんなInstagramなやってる)、災害時の情報インフラって言われるとやや違和感がある。明らかにテレビやラジオやNHKのサイトのほうが優秀だし

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誰もが、他人と共に社会をつくっている。これまでの社会や時代のなかで、自分がそこにどう関わってきたのかを繰り返し考え続けなければ、状況に合わせてその都度都合の良い振る舞いを繰り返すばかりになる。

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人間を人間扱いしないあらゆる暴力は、許されて良いわけがない。で、かつての時代にハラスメントに手を染めていた人間が、今になってシレッと立ち位置を変えているケースにも、本当に腹が立つ。

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近年繰り返し指摘されている、後輩芸人に対する松本の「優しさ」は、ダウンタウン以降にリフレッシュ・再強化された芸人共同体だけが、彼の不安を払拭し得るものになっているからだろう。共同体の内側には極めて優しく情に厚い人間が、その外側にいる者を人間扱いしないような事例は、あまりにもありふれている(戦後民主主義は、これを克服し得ただろうか?)。言うまでもなく、そういう暴力は、公共圏や市民社会において肯定されてはいけない。

しかし、このような共同体の作法から、芸人ではない日本の「市民」たちははたして脱却しているのか、そもそもそれは脱却し得るものなのかという疑問が、自分自身も対象にした上で、どうしてもぼくのなかに湧いてくる。ウェブを見渡してみるだけでも、思想信条の如何に関わらず、仲間やお友だちの共同体がそこら中に乱立している。そこでは例えば、批評や思想のようなものがあたかも演芸のように、ただ共同体をリフレッシュし再強化するものとして、機能したりはしていないか?共同体の外側に対して、あくまで一個人として向かい合おうとするような気概を持つ人間が、はたしてどれだけいるだろうか?

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演芸は、共同体をリフレッシュし再強化する。共同体を本当の意味で撃つことは、基本的にない。そして90年代にダウンタウンが図らずも掬い取ってしまったのは、あの頃の日本社会にあったある種の不安や強迫観念だったろうと、やっぱり思う。彼らの「不条理」のなかには女性差別も外国人差別も内包されており、それをコメディとして徒手空拳で現前化できてしまったからこそ、ダウンタウンは90年代日本のカルチャースターとなった。日本共同体は彼らに刺激されリフレッシュし、問題はそのまま放置され、再強化された。
ただ松本自身は自らを、孤高の天才、才能があるが故に疎外される存在、といった語り口で、「撃つ者」として、描写し続けた。大衆は愚かだ、誰も自分を理解できない、という口ぶりには、あたくしは世の中の太鼓持ちでござい、というような芸人の余裕はなかった。周りの芸人たちは「タレントさん」であり、自分はそいつらとも違うんだ、とまで自負していた自意識や不安はしかし、2000年代以降、後輩芸人たちに崇められ祭り上げられるなかで弛緩し、雲散霧消していく。芸人共同体もまたダウンタウンによってリフレッシュされ、再強化されていた。

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これまでずっと「だって自民党くらいしか入れるところなくない?」と抜かしてきた出版営業畑の友人が、あちこちで音を立てて崩れ去る書店の惨状を見続けてきた結果ついに「この状況は本当にマズイ、末期的」とか泣き言を言い出したので、この事態はなにも出版社や書店の努力が足りなかったから引き起こされたものではなくて、低賃金労働やら容赦ない増税やらに伴う可処分所得の低下やらお粗末な教育行政やら大企業偏重の経済政策やらの結果だからと慰めたところ「たしかに政治がヤバい」と開眼するに至った

もう限界という産業は他にも死ぬほどあると思う

G.I.S.M.の最高傑作は“SoniCRIME TheRapy”だと思うんです。

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XTCは全然ファンなわけじゃないので聴き込んでない前提で言わせてもらいますが 『Apple Venus Vol.1』がいちばん好きです!

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下北沢もかなり変わってきていて残念な変化もあるにはあるけれど、それでも若い人たちのための街というスタンスが変わっていないのは、開発初期段階でガッツリ反対運動したからってのもおそらくある。駅ビル低層化なんていうのはその最たるものの一つ
cinra.net/article/202307-nasuo

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昔Jの人(既に退社)から「ウチの楽曲コンペは140%ぐらいの出来の曲じゃないと通らない。なぜならパフォーマンスがアレだから」と聞いたことがあって妙に納得した記憶。「良い曲もたくさんある」って、ならそうだろうと

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