寂しさとアイデンティティのはなし
過去Xのアカウントで一緒に遊んだこともある人が、ぼくがトランス差別に強く反対していることも葛藤しながらノンバイナリーであるアイデンティティを獲得していった過程も知っているはずなのに、トランス差別が勢いづいた時にノンバイナリー差別ツイートを積極的に流してきたことがあって、すぐに距離をとったもののそこそこショックを受けドチャクソ悔しいが心に傷もできてしまったらしいのね。それからSNSで新たに仲良くなりたいと思ってもどこかでプロフィールで公開してるアイデンティティが相手や自分が関わりを深めるにあたって壁になってるんじゃないかと考えてしまう一瞬がある。
それでもぼくは人とおしゃべりしたり関わることがすきで、できれば同じものをすきな人と(もちろん差別主義者などを除く)たくさん仲良くなりたいと思ってしまう。自分を守るために公開するものは目につく範囲を限って、コミュニケーションを取ろうとする前には慎重になってってするんだけど、それだとずっと寂しさがある。何の躊躇いもなく人と関わり合いたい。
寂しさとアイデンティティのはなし
「腐」や「ホモ」をなんの躊躇いもなく使うとか、「地雷」や「戦犯」「飯テロ」もそうだし、「男前」「男らしく」をキャラクター性としてではなく用いるとか……程度の差はあれissueとして当たり前に共有されていると思っていた問題が不意に飛び出してくる 選挙率とかの話と同じで、やっぱり層や視線を移せば物事は全く違う様相を抱えてるもんなんだよなあ。
だからこの寂しさは、たぶん抱え続けるのがぼくにとって健全な関係を築くにあたっての土台として必要なんだろうなって頭では理解してる。
とはいえ、寂しいんだあ。