「自己責任論」の俗流化(表面的な一律適用)が難しいのは、「責任を取る」ことを仕事としている人もいて、その代わり結構な権力を握っているということを透明化してしまうのでは……ということ。例えば、「政治家」。「地位と名誉と報酬などはキープで、『責任』は免除してね!」と言ってもダメですよね。

「100%『構造』のみ!」ではなく、濃度があり、立体的な揺らぎがある。引き受けることが期待値に組み入れられて権力を任せられている役職もある。「悪意」を漲らせた差別表現もある。
「構造」は考えるべきだけれど、立体的なスペクトラムがあるのでは……。

な。「定義」が天から降ってくるみたいに思っていると、こんなのになるんだよ。
twitter.com/kouro16/status/168

テクノクラートの多くは17世紀的な近代観を少なからず保持しており、私は別に進歩主義をとらないが積み上げてきた21世紀の知見もあるでしょうよ、と思う。

「官僚」もそうだね。コントロールすることを仕事として見込まれて、名誉も報酬も十分に得ているなら、ちゃんと責任をとれよ、と(細かい統計の数値を知り得て、公正的な処理を任される仕事にありながら「大衆のみんな、どう思う?」じゃねーわ!!)
fedibird.com/@2d3m13/110355723 [参照]

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「頑張れば報われる」が反転した「不遇なやつらは頑張らなかったからだ」という俗流道徳に対し、「自己責任論」と個人化を批判化した構造主義。それは大切なのだけれど、権威ある者の無責任を容認しかねない微妙さがある。
「そんなに文句があるなら、お前が政治家/官僚になれよ!」という横暴には、「そんなもんにならんでもNOを言う権利が我々にはある!!お前は権威ある者として公正を尽くせ!!」と言わなれけばならない。

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